サボテン今昔 No.2-2 「奇想天外」
(青色になった赤石氏アルバム参照の文字をクリックするとアルバムにリンクします)
奇想天外はナミブ砂漠特有の植物で、ここ以外には世界の何処にもない。ナミブ砂漠の様に南北に細長く、大西洋に西面し、沿岸を寒流が北上すると言う条件は南米のアタカマ砂漠、北米のカリフォルニア半島と類似している。
ナミブはアタカマと同じく雨量が極めて少なく、年間20mm程度だと言う。しかも大変暑く、砂漠の表面と空気は時に70℃に達する事もあり、40℃くらいは当たり前だそうであるから蒸発も激しい。このような苛酷な環境に生きる生物が頼るものは霧である。霧は海岸近くで100日またはそれ以上発生し、年間50mmの降雨量に核当する。長い海岸を覆う命の霧を水に変える卓越した能力のある生物だけが生き残れる世界…そこが奇想天外の故郷である。
自生地はナミブ砂漠の北に片寄っている。アンゴラとナミビアの国境を流れるクーネネ川(全長1127km)から約650kmほど南下した所にあるクイセブ川(涸れ川だそうである)の間のナミビア領内と、クーネネ川から北、約250kmのモサメデス近くまでのアンゴラ領内の海岸砂漠、幅は海岸から最も深い所でも100km、多くは30〜50kmまでの内陸に限られる。大変広大な地域だが、沢山生えている一部の地域を除けば、数は疎らといってよかろう。クイセブ川の北にスワコブ川(全長400kmの間欠川)と、さらにその北に支流のカーン川があり、そのあたりがウェルウィッチア平原と呼ばれる砂礫の波状地形である。
1996年に日本多肉植物の会の方々が探訪されたのもこの地域である。
赤石幸三氏撮影(赤石氏アルバム参照)の柵で囲まれた大株の写真はグランドマザープランドと説明されている様に関係者の間では有名な株らしい。日本の何処かにあれば、神木等とされて注連縄くらい張られかねない。屋久島の縄紋杉、紀元杉クラスである。この写真を私は懐かしいような思いで見つめた。自生地に行きもしない私が懐かしがるのも変な話だが、ボーンマン氏の本にこの株がカラー写真で掲載されているのである。しかも2枚も。霧のかかっているものと晴れたときのものと。この2枚の写真はボーンマン氏の本が出た1978年以前に撮られたものであるから、今回の写真とは約20年の開きがある。20年も経てばいくら生長の遅い植物でも多少は趣きが変わる。ところが、若干葉が伸びた事が認められる以外はほとんど変わっておらず、2葉の写真を並べれば誰でも同一株であると指摘出来るほど変化がない。2000年も生きるといわれる奇想天外にとっては20年くらいは物の数では無いのであろう。
ボーンマン氏の写真説明の中に「このHusabの奇想天外は1500乃至2000年は経っていると思う。高さ1.5mの雌株。幹の枯れた破片が散らばっている。不心得ものがお土産にそれを持って帰るので保護の為にフェンスが張られるようになった。」という意味の事が書いてある。但し、原写真にはフェンスは写っていないから、今回撮影の写真に見られるフェンスは1978年以降に設置されたものと考えられ、ボーンマン氏が“立ち往生した蛸のように”と表現している株と同一であろう。
この場所から北西約250kmくらいのMessum山の北には一番きれいなものがあるとの報告もある。そこからさらに北のダマラランドのKorixasの近くではなんと草丈60cmのサバンナの草に隠れて生えている株もあるとか。(D.コートによる)そういう場所で見る奇想天外は全く違った印象を与えることだろう。なお、この地方では葉をしゃぶる遊びがあるとか。チューチューと吸って滓を吐き出すのだそうだ。奇想天外にとっては迷惑な話だが、そこは大もの、平然として“不死の2枚葉”を繰り出し続けるのだ。
奇想天外の、他に類を見ない異様な形態と生存パターンは一体どう考えたらよいのだろうか。ボーンマンの記述と、それを補足する形のコートの記述などを総合すると“頭の無い木”とでも表現出来ようか。
種子が芽生えてまず双葉を出し、次いで本葉が出るところまでは、例えばマツ等と同じであるが、生育の過程で、生長点が消滅する。結果として葉は2枚のまま終生伸び続けるしかない。葉の間はクレーターとなって沈下し、その幅は年と共に広がり、遂には1mにもなる。クレーターの周縁は少しずつせり上って行き、観察された記録では地上高1.5mに達する。幹の外周は5mを越すほどになるという。丁度、球形カクタスの生長“点”が“線”となって左右に伸びる綴化を思い浮かべると分かりやすいと思う。クレーターが不格好にうねったりする状態は綴化に似ている。
もちろん、2枚の葉は長さと共に幅を広げて行く。自生地では1年に10〜20cmづつ伸びるという。そして平均的に葉幅は1.5m、長さ3.7mと記録されているが、ボーンマンの観察したところでは、先端の枯れた部分を含めて長さ8.8m、生きている部分は7.3mのものがあった。葉幅が広くなればとてもまともな形ではいられないのでズタズタに裂け、裂けたそれぞれはうねりながら伸び続けるような姿になる訳である。
ねじれ、うねった葉先は熱い砂漠の砂で灼かれ先端から枯れ込んで行くのが自然の形だが、若し無傷で伸び続けたとすれば、樹齢2000年の老木の場合、陸上競技の400mトラックを3mの幅で覆う量に匹敵する、とボーンマンは計算している。葉がねじれたり、先が枯れたりするのは蒸散を少しでも減らすのに役立っていると思われるが、時にはスプリングボック(羚羊の1種)に食われて極端に葉の量が少なくなってしまった可哀そうな株もあるらしい。
葉の成長速度は環境によって極端な差がつく。霧に恵まれない年には葉は枯れ始め、遂には本体も死ぬ。葉が死ねば本体も死ぬということは厳然たる事実なのである。それほど大切な葉であるにもかかわらず、奇想天外は、根部を含めて完全な耐乾構造にはなっていない。葉そのものはたしかに強靱であるが表皮は他の砂漠植物のように厚くはない。多くの乾性植物は気孔からの水分のロスを減らすために表面積を減らすとか、またはアロエのように葉に水分を貯えるかするものだが、奇想天外の、多肉質とはいえない葉の表面積は異常に大きい。ある記録によれば1本の株の葉の表面積は55uもあるという。コートは言う「これこそがサバイバルの糸口なのだ。即ち1cuあたり、22,200の気孔が葉の両面にあり、毎朝の霧を吸収する。こうした日ごとのリフレッシュが、他の植物がほとんどまたは全くない地で奇想天外が生き残れる力なのだ」と。
奇想天外の葉について私が集めた情報は大体こんな所だが、次に根はどうなっているのか文献を辿ってみよう。
根は日本で一部の人達が思い込んでいるように10mも20mも深く伸びているものではないらしい。コートは「根は伝説的に語られているように深くはない。実際、主根は比較的浅く、多くの支根が地表近く張っている。主根が3mより深いかどうかは疑問」と述べている。ボーンマンは「根はテイパー(人蔘のような逆尖塔形)のついた主根と、はっきりそれと分かる支根から成る。支根にはテイパーはなくデリケートなスポンジ状。深さ25cmほどの乾いた砂礫層の下に厚さ50cmほどの湿った砂の層がありスポンジ状の根はそこに張っている」と明記している。彼の説によれば、主根の深さは大まかであるが、葉の長さに比例する。葉長2mならば主根の深さは2mくらいと見ればよいと言う事である。実生をされた方の記録では、まだ子葉の残る実生苗の場合は根は地上部の10倍近くも伸びるから、この植物は先ず根を発達させることは間違いないが、ある程度まで行けば後は地上部と均衝を保つようになるのだろうか。
イエンセン(前出)は根の長さについては触れていないが、原産地の土壌についての記述があるので以下その部分を引用する。
「ウェルウィッチアの自生地の海抜は300〜400mで常に河の近くである。従って直根は湿り気のあるところへ十分到達できるわけである。河に数年間水がないような場合でも、奥地から来る地下水が河床を伝っているのである。植物が個々に離れて存在しているのは、ナミブ地下層の赤い燵石状の花崗岩の目に見えないほどの小さな割目の間に根を張るためと思われる。自生地の土壌は滑らかな小石と、明瞭に石膏で固まった砂である。これはどの地区でもほとんど同様である。ウェルウィッチアはワルピス湾の奥地やウェルウィッチア平原ではナミブ植物相の主役をなしている。折々、アスクレピアス属の植物等が共に野生しているがバドケープクロスからブランドベルゲン付近までの地区にはウェルウィッチア以外の植物は何も生えていない。フランスフォンティンではモパネの木や、Aloe asperifoliaと共によく生育している。」
主根の深さについて7mとか10mとか、あるいは面白おかしくするためだろうか25mと書かれた記事を目にした記憶がある。根は極端に深いものだという思い込みは欧米でも日本でも、ごく当たり前の事であった。ヤコブセン(前出)は数字は挙げていないが“extremely deep taproot”と記述している。そのため、私自身も最初に実生を試みたときは土管に播いたし、あるいは温室のベッドに直接タネをおろした人もいた。根の伸長につれて鉢をつぎたして育てる方法も編み出された。こうしたやり方は基本的には誤りではないが、原産地の事情がわかってくれば、もっとスマートな方法が考案されて当然だろう。
奇想天外は雌雄異株である。雌花、雄花ともに松カサのような形をしていて、葉のつけ根あたりに穂状に花がつく。雄花は一般の被子植物に似たところがあり、葯があって花粉がつく。花粉は風で飛びやすい構造になっている。
雌花の松ぼっくりは形も大きさもマツ科の植物そっくりであるが、胚からの粘り気のある透明な液を鱗片の間から外に出す仕組みになっている。風で飛んで来た花粉粒をこの粘液で捕えて受精する。成熟した雌株は1シーズンに100〜200もの松カサをつけ、それぞれは、若し障害がなければ、100粒程度の種子を生む事になるわけだが、現実は非常に厳しい。種子の相当数は粃(しいな)だという(ボーンマン)。これは雄にも雌にもたかるが、特に雌にたかる吸汁害虫が若い果実の汁を吸い、そのために種子の成熟が妨げられる(コート)結果らしい。
被害を免れた種子も菌でやられる。また、生育中の花にワタムシの類がつき蜜状の分泌物で冒されることもある。さらに果実そのものを小動物が食う。というわけで、まともな種子は1〜2万粒のうち、わずか20〜200粒程度と推定されている。種子には羽根がついていて風で飛ぶが、余り遠くへは飛ばない。7月(冬)のフェーン現象による風で親を離れ、土の割れ目、草むら、枯れ植物の堆積物などの間に落ちるが、まだまだ安全が保証されるわけではない。齧歯類が好んで食べる。また、コートによれば、数日の間にある程度の雨が降らなければそれで終り、だという。
「そういう好条件は減多に起きないことは自生状態を見れば理解できる。ある群落の奇想天外はすべて同じ年齢なのである。もっとも、こういう現象は何も奇想天外に限ったことはなく、レソートLesothoにおけるアロエ・ポリフィラA.polyphyllaや、キートマンスフープKeetmanshoop近くのアロエ・ディコトマA.dichotomaについても言えることである」、とコートは記している。
種子は長さ7mm、幅5mm、厚さ2mmあり、平均の重量は120mg。35%が脂肪、25%がプロテイン、10%が炭水化物という組成で脂肪が多いから酸敗しやすいことも考えられるが、種子自体は3年くらいの寿命がある。折角、風に乗って新天地に舞いおりても、発芽生育の条件に恵まれなければすべて無に帰すると言うコート説もあるが、地に落ちたまま次の発芽チャンスを待つ、という手も考えられる。ボーンマンによれば種子がある種の発芽抑制物質を持っているらしい。これによって、種子の寿命がある限り、好期を待っているのだろうか。もっとも、親植物そのものが実生苗の生育を阻害する物質を出すと言う事だから、自分の子がすぐ近くでやたらに殖えても困るので、自己防衛機能を備えていると解釈すべきなのだろうか。何れにしても厳しい環境の中で、育って一人前になることは大変な事なのだ、と改めて思い知らされる。
記録は古いが、結実の経過を観察したイエンセン(前出)の記述を引用する。「ハイガムカープおよびフサーブ近くのシュワーコップ河原の南で私が観察したところでは1953年から54年にかけては開花は非常に遅れ、5月初めになってようやく貧弱な花を出した程度であったが、54年から55年にかけては12月末ごろにはもう元気に開花し始め、その後も頗る盛んであった。どうもよく咲いた年のあとでは往々にして貧弱な花しか出ないとか、或いは降雨のあった年には元気がよくなると言ったような事ではないかという気もするが、然し53年から54年にかけては良い雨があったし、54年から55年にかけては雨は奥地だけに降り、この地方は何の恩恵も受けなかった事を考えると、降雨が直接的影響を及ぼすとも考えられない。今後10年ぐらいのスパンでの観察が必要であろう。」
種子は条件に恵まれれば10〜20日で生える。種子には栄養があるので急速に育つ。先ず双葉がでて3〜6週間で本葉が出る。最初直立、後に左右に広がり、約4か月後、双葉を凌駕する、というのが一般的な育ち方と言える。イエンセンが挙げているヘーレH.Herre著“種子から種子までのウェルウィッチア・ステレボッシュ大学植物園における―”という本の内容の概略をコートが記しているので引用する。「ステレンボッシュ大学植物園の元園長Hans Herreはルドルフ・マルロースRudolf Marlothから1927年に種子を入手して実生した。それから25年後、彼の実生苗は結実した。約1か月後にこの種子を播き13〜16日後に発芽した。かくてヘーレは栽培品のウェルウィッチから採種した最初の人間となったのである。生育速度は快適な条件下ではスピードアップ出来るはずで、カルーKaroo植物園では1974年に実生した若い雌木が1977年に結実を見たのである。」
日本に初めて種子が来たのは前述の通り1936年であるが、その後何回か輸入された種子を含めて戦前の記録はほとんど、あるいは全く残っていない。私は1950年代に京都大学古曾部園芸場で栽培されていた植物を見た記憶がある。当時ここを管理していた瀬川弥太郎先生によれば、先生の前任者であった玉利幸次郎先生の実生との事であった。大温室の入り口に地植えされていて順調に育っているように思えたが、その後、風の便りに枯れたという話をきいた。入り口に余りにも近かったので来客に踏み殺されてしまったらしい。
その後、龍膽寺先生が鉢植え植物として育てる事を意図して、鉢を継ぎ足す方式を考案して話題になったことがある。(1958年ころ)
この頃から各地で実生に挑戦する趣味家が少しづつふえて来たと思われる。1971年倉敷市の佐々木務氏はシャボテン誌80号に1968年に実生した奇想天外の詳細を発表した。実生に係わる一切とその後生育振りを記録したもので画期的な記事であった。こうした方々の努力により、ナミブのこの貴重な植物は一段と身近な存在となって来たのである。
↑色々な植え方で栽培された当時の奇想天外
栽培については仙台市の片山茂氏の記述が大いに参考になる。実生後7年、52本の実生苗は写真で見る限りすばらしい生育で、そろそろ開花を迎えるはずであった。片山氏の他界が残念でならない。片山氏の記事の中に、愛知県の水谷功氏の奇想天外実生10年で出蕾した写真がある。前記した佐々木氏の株も開花したはずである。カルー植物園の実生3年で結実という記録には及ばないとしても、適切に管理すれば、われわれの栽培室で花を咲かせて種子を取る事も十分可能である。
国内完成株として評価の高い、秋田県 工藤勝義氏栽培の開花株
(2004年10月撮影)
奇想天外種子 種子の外皮を取り去った部分 播種状況 発芽直後
発芽5日目 発芽55日目 発芽95日目 発芽1年目(2004年10月) 実生については、温度と湿度と肥料が充分であれば、あまりやっかいな植物ではないと考えてよいであろう。片山氏も「年間を通じて可能な限り高温を維持し充分に灌水する。仮に加温できなくとも根を乾かしてはならない」と言っておられた。イギリスの最も権威ある書物に“冬は完全に乾かす”という1行があるが、こんな事ををすれば致命的である。水だけは切らしてはならない。世界有数の乾燥地の植 物の栽培ポイントが水と言う、一見意外な事実に気づいた人達が栽培の成功を齎したのである。
(実生写真提供・赤石幸三氏、西川弓子氏)
←Harry Mak氏(UK)栽培の奇想天外
参考文献 ‘Welwitschia’ Chris H Bornman
‘サボテン日本’ 奥 一
‘シャボテン誌’ 平尾 博
‘植物の私生活’ Dabid Attenborough 他、文中に記載の文献
後記 最近は奇想天外その他の植物を書籍で探す事が難しくなりました。上記参考文献も殆どの物が絶版、又は散逸し図書館でも目に出来ないようです。その中で‘植物の私生活’(山と渓谷社・1998年初版 3200円税別)は多数のカラー写真とコメントを楽しむ事の出来る本として入手可能です。又、オオオニバスは熱川バナナワニ園で栽培されおり、実物を観賞する事が出来ます。奇想天外は添付記事のような被害が相次ぎ、今は専門業者や趣味家の温室に大株が栽培されて残っているようです。
奇想天外の実生をなさりたい方は奈良多肉植物研究会で種子の購入が可能ですので問い合わせされるようお勧めいたします。
植物の私生活(山と渓谷社) | 熱川バナナワニ園のオオオニバス観賞温室 | 奇想天外盗難記事(2004年8月20日 毎日新聞) |