サボテン今昔 No.4 「光堂」Pachipodium namaquanum Part1
平尾光堂書き出しからの引用をお許し願いたい。これから記事を読まれる方の大多数はこの文献をお持ちでないと思うからである。
「カクタス研究」(主幹龍膽寺雄)Vol.2No.7及びNo.8(1956)から次の記事を抜粋する。
「シャボテン漫筆−道楽三味」
‘光堂を見た話’(龍膽寺雄)
太平洋戦争の末期の昭和20年の2月はじめに、東京千住の蓮波一美君のところで、はじめて光堂(ヒカリドー)を見た時の感激を今でも私は忘れられない。蓮波君は昭和初年のシャボテン流行期に東京カクタスクラブが華々しく活動していた頃、ほとんど中心的にこれを指導していた有名な栽培家で、戦争中はほとんどもはやシャボテンのことを顧みる者などいない時に、まだ蒐集を続けていた。
温室は入り口に近い部分が特に仕切られて通風室となり、そこは主としてメセンや夏期冷涼を好む植物が収容され奥の仕切りの中がシャボテン室になっていた。そのコレクションは小規模ながら驚くような逸品揃いで眼がさめるような美しい栽培で私をしばし嘆息させるに十分だった。あとにも先にも私はこれほど見事な蒐集を見たことがない。黒い京楽鉢のリトープスやコノフィータム、鮮やかな黄斑や白斑の兜、毛の束を長く突き出した烏羽玉変種、純白の長い毛髪を放射した長毛種玉翁…とにかく最高の珍稀種だけを蒐つめた上、栽培がまた珠玉の美しさだった。明らかにそれは名人の域だった。
この見事なコレクションの中でも断然他を引きはなして目立っているのが光堂だった。私はこのコレクションの中で光堂を見るまで、日本にこの珍稀な植物があるとは識らなかった。聞くところによると見本のようにして鶴仙園にはいった2本の植物の1本が保存されていたのだという。この珍稀な植物はヤコブセンの「多肉植物」に紹介されているのを読んで以来、私にとっては長い間あこがれの対象だった。一度はこの素晴らしい植物を眺めたり栽培したりしたいものだと夢に見るほど執心した。原産地にあっても、よほど珍重されている貴重な植物らしいのでまずこの植物の現物を手に入れることは、どんなに憧れようと、夢想に近い希みだろうと考えていた。その植物を、蓮波君のコレクションの中に発見した時の驚き!しばらく息がとまったとは正にこの時のことだった。直径3寸高さ2尺に近い見事な標本で、写真を見て想像していたよりも一段に素晴らしい魅力にみちた植物だった。
光堂はその茎頂にもの柔らかく葉縁の波打った美しい鮮緑の葉をのばして、盛んに成長していたので、冬の寒冷な時季を成長期とする植物だナと観察した。
東京は3月10日(昭和20年)のB29の大空襲でいわゆる下町のほとんどを失った。湘南北部の暗い高原から、業火に燃え狂う大東京の姿をかなたを眺めながら蓮波君のコレクションや、4棟の温室にまだギッシリ詰まっている鶴仙園のシャボテン群の焼け落ちるのを思って蒼然たる気持に襲われざるを得なかった。殊に蓮波君のコレクションの如きは、一度滅びたら恐らく二度と見ることの出来ない種類のものなのだ!
国防服の背中に鉄兜を背負い荒涼たる焼け跡に蓮波君と鶴仙園を訪ねると二階建ての母家の店舗も4棟の温室も跡かたもなく、温室のあった跡は鉢、鉢、鉢の狼籍たる堆積の上に、トコロテンを打ちまけたように、溶融したガラスが流れてかたまりついているだけで見る限り荒涼たるものだった。
悄然たる気持で鶴仙園の焼け跡をあとに蓮波君のお寺を訪ねた。私を垂涎させた世にも素晴らしいコレクションを収容したペンキの塗りも清潔な温室は、散乱した鉢とその上にコビリついている溶融したガラスの見る影もない塊と化し後ろの石垣だけがわずかに面影をとどめるに過ぎなかった。選りすぐった植物を集め、丹誠をこめて栽培して珠玉のように美しく育てたあのコレクションのすべてが、今は散乱した残骸と化しているのを見て、しばし茫然とそこに一人立ち尽くしていた。
浜崎氏光堂
 大変に長い引用となったが、私の記憶の中にもあの蓮波さんの光堂の面影がかすかにある。学生のころ何回が蓮波さんをお訪ねしいろいろと教えていただいた懐かしい日々が龍膽寺先生の描写によって鮮やかに甦って来る。もとより先生ほどの知識はなく、光堂がそれほど貴重なものとは知らなかったから温室の中で異彩を放っていたあれが光堂だとは、ずっと後になって知ったのではあるが。
昭和18年12月に私は軍務に服したので、龍膽寺先生が見たものと同じ光堂を先生より2年ほど前に見ていることになる。
 戦前の超稀品の光堂は戦後になっても依然第一級の稀品であった。戦後最も早く出版されたサボテン関係の本は昭和27年(1952)の伊藤芳夫著「サボテンの知識と栽培法」であるが、その翌年出版された龍膽寺雄篇「シャボテンと多肉植物」が多肉植物をうたった最初の書物である。この本には光堂はおろかバキポジウムは1種も登場しない。
日本カクタス協会会報「カクタス」No.95(1955)に掲載された南アフリカのホール氏H.Hall提供による自生地の写真とその説明によって光堂の概略を知った人が殆どではなかろうか。そして存在を知ってはみたものの現実の入手などは思いもよらない時代だった。ところが、どういうルートか知る由もないが龍膽寺さんが実生苗を育てていたのである。前出の「カクタス研究」の1956年No.6に「龍膽寺コレクション標本室だより」という欄があり“実生室も昨今きわめて充実し、現在、世界的珍稀植物奇想天外、光堂その他、南米産シャボテン新種200種等の実生植物が元気に生育し…”と記されている。また1956年No.11には実生苗の写真が載っている。もっともこの写真の植物は光堂ではなく白馬城のようにも見えるのでいささか疑わしい。
 私が光堂をはじめて手にしたのは1960年。灰白を帯びたあかね色の刺をまとった美しい植物であった。この年のシャボテン社リストでφ6cmH40cmの輸入株を発表しているので、この時が最初と判断出来る。もちろん営業なので私自身のコレクションに加えることは出来なかった。輸入の道が拓けたので何れは所持も可能と思っていたがその後数年はこの植物と縁が無かった。次に入荷したのは1966年。当時南アの植物の最大の供給者だったカープ氏B.Carpの急逝に伴い、その遺品が日本に送られて来た。同氏が最後まで売らなかったものだけに桁はずれの逸品が多かった。50cmに及ぶ亀甲竜、基部径35cmのブドーガメなどを従えてφ12cmH73cmの光堂が君臨していた。この株は某植物園に納められたが、今でも健在かどうか。
阪井氏光堂
 その後1970年にかけて20株程度の原産株を扱った。記録によると高さ20〜60cm、幹径は4〜10cm。価格は12,000〜80,000円。この記録を見て、意外に幹が細いような気がするが、自生地ではこんなものなのだろうか。近頃各地で見かける実生株はもっと太胴のものが多いように思う。そのころ私も輸入株の栽培に挑戦した。最初は失敗であった。先細りに生長したのである。ヤコブセンの「多肉植物教本」にも先細りの写真が出ているのを見て妙に安心したりもしたが、輸入株のお守りは難しいらしい。納入先の何人かから活着に失敗したとの報せが届いた。
 実生ならば、と思っていた矢先、芳明園の黒田古雄さんが実生苗を分けてくれた。小指の先ほどの可愛い苗がたしか1,500円だった。栽培法がよくわからず、おっかなびっくり育てたために成長は(今考えれば)かなり遅かった。それでもいつの間にか5号鉢、8号鉢へと出世して花をつけるようになった。入手から15年近くもかかったろうか、高さ50cm余りの時と記憶する。花が咲けばタネをとりたいと思うのが人情。まずは相方のいる豊川の三保谷先生の所へ鉢植えのまま2年ほどお預かり願った。先生は白馬城、天空馬はもとより、当時一般ではほとんど成功する人がなかった恵比寿笑いP.brevicauleの採種、実生にも実績を挙げておられたので、その手腕に期待したのである。残念ながら花が合わず、私の標本は少し大きくなって戻って来た。次の手段は花粉の交換である。これは岡山県の友人と6〜7年に亘っておこなった。花粉をカプセルに入れ、シリカゲルで満たした容器に入れて相互に郵送するのである。花粉の保存法などを勉強するうちに、ベンジンやエーテルが使えることを知り、2〜3回利用したこともある。ひと口に花粉といっても光堂の場合、採取が難しい。長い漏斗状の花を開いて柱頭を抱くようにしているフタ?を外して花粉を採取するのは容易でない。私の場合何とか花粉らしきものを集めたといった程度であった。柱頭がまた弱々しく、花粉採取の際に痛めることもしばしば。それでも毎年この作業を行った。1980年代に入ってから光堂の実生苗入手のチャンスはあった。種子も買えないわけではなかった。しかし、目的は自分で一度はタネを稔らせてみたい、という所にあったから意地になって交配に取組んだのである。年々株の背丈は伸びる。人間のほうの老眼は進む。高さ80cmの棚に上って、1尺2寸鉢植えの高さ80cm余りの光堂の頂部の花をのぞき込んでかきまわすという作業は年ごとに苦痛の度を増してきた。かくて、はたから見ればかなり漫画チックな年中行事は目的を達することなく終了した。
 しかし、前後10年に及ぶ努力はまるで無駄だったというわけではない。授粉して数日後ポロリと落ちるのが当り前だった花が、ごく稀ではあるが19日余り?も踏みとどまり、結実か!と淡い期待を抱かせることもあった。時には何となく果実の形になりかけたこともあり、あと一歩の感じであった。また、遠隔地との花粉のやりとりを通じて、光堂の開花期が栽培環境によってかなり遅速を生ずることを学んだ。私の温室でも4月〜6月と年によって開花期が違ったし、先方ではほとんどの年で私の株より1〜3ヶ月は早く開花した。
 はじめ10数論、更に成熟してくると40輪近くもの花が株の上部に群がって咲くさまは仲々壮観である。どちらかというと地味な花だが、植物体の風格にマッチして心地よい。
 もう一本の開花株を入手したのは5年ほど前、今度こそは他所から花粉をいただかなくも済むと喜んだ。事実最初の年は例年にも増して念入りに授粉を行った。結果は変わらなかった。最後の望みは昆虫の出番である。原産地では当然昆虫の媒助によって結実している。若しかして横浜でもと、開花中は猫の侵入にも目をつぶって温室を大きく開放した。結論を言うと、この昆虫フリーパス作戦も失敗に終った。光堂のあの長い花筒の底まで届く口吻を持った蝶や蛾がいないはずはないと思うのだが、日本の昆虫は光堂の花粉や蜜には興味を示さないのかもしれない。
 花が終るころには枯れ葉が目につくようになり次第に落葉して休眠に入る。葉が全くなくなって約1ヶ月。頂部に新葉が見えてくる。前述したように開花期によってそれが春であったり、夏の初めだったりする。私はこの間がこの植物の休眠と解釈し、新葉がのぞく機をとらえて植替えをすることにしている。従来、光堂は冬季生長、夏期休眠といわれてきたし、そう書いてある本もある。たしかに冷涼季に葉は繁るから冬型と言えないこともないが、私の観察では、ある程度の大きさになると(未開花株でも)春から初夏にかけて約一ヶ月の無葉期があり、休眠と言えるのはその間だけではないかと思えるのである。
 終りに管理について。思ったより肥培がきく。温室内に地植えされた実生苗を見たことがあるが、直根を深く伸ばし、丸々と太っていた。鉢植えでもこれに近いことは可能だろう。但し余り太らせるとトゲの間がすけて、現地株に見るあの風格がなくなる。太っただけトゲが増えるなどということはないのである。太胴を優先するか、多少細身でも密生したトゲを楽しむかは栽培家の好みとしか言えない。
 私は亜阿相界、ラメーレイ、白馬城を春〜秋の間は平気で雨ざらしで育ててきたが、光堂をそういう扱い方をしたことはない。現在高さ5〜20pの若苗を軒下に並べているが、吹き降りの時以外は雨に当たらないようにしてある。雨ざらしにするとどうしても汚れるのではないかとの懸念があるからだが、案外取越し苦労かもしれない。
Barkhuizenの光堂 ささやかながら暖房があり、寒さの心配のない温室からの現在の無暖房の温室へ植物を移して5年になる。最初の冬、一番心配だったのが光堂の大株であった。丈が高いだけに頂部は屋根にごく近く凍害をまともに受ける恐れがあるからである。が、それも杞憂に終わり、光堂の耐寒力を見直した。厳冬の間生長こそしなかったが美しい葉はそのまま残っていた。春先からの生長にも異状は見られなかった。図にのったわけでもないが1996年には4月早々に若苗を表に出した。前期の軒下へである。北風は完全に遮断しているもののこの年の4月はご承知の通り寒い日が多かった。0℃すれすれの日も何日かあった。生長は完全に停止し、葉も次々に枯れていった。完全な無葉状態になって約2ケ月、6月末になってやっと新葉が頂部に出はじめている。戸外へ出すのをもうひと月遅らせればこんなことはないと思う。いくら寒さに強いと言っても無茶は禁物という教訓。無葉期が長かった分、この年に光堂を見つめていた時間は例年になく多かった。
 元気いっぱいの小苗よし、人跡未踏の曠野に佇む老木さらによし。光堂はその生涯のどの過程をとっても見所のある素晴らしい植物と思う。
   五月雨の 降りのこしてや  光堂
奥州平泉の金色堂を詠んだ芭蕉の名句をイメージして、遠い南アフリカのこのPachypodium namaquanumに‘光堂’と命名した人の感性も秀逸であると思う。
B.P.Barkhuizen  Succulents of South Africa





光堂写真説明
左上・平尾博 栽培  中右・浜崎智一氏 栽培 
左下・阪井健二氏 栽培
原産地写真は左掲の洋書より転載致しました。
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