サボテン今昔 17 
「二宮の昔話」に見る“棚橋半蔵”

異人なす(第一次世界大戦余話) 松本昇平著

 海を見下ろす丘の上に、HANZO TANAHASHI とローマ宇で小さく書かれた表札とは対象的なバカでかい洋館が建っていた。ドイツ系混血児ハンゾ棚橋の別荘であった。洋館に沿って浜端道が細く長く続き、その先端は海岸まで延びていた。
 夏になると浜端道の畑からは南風に吹かれて日向臭い異人なす独特の強烈な臭気が鼻を突いてきた。海へ泳ぎに行く少年が二人、紅く実って枝もたわわに鈴なっている異人なすを横目で見ながら、鼻をおさえて通っていった。

現在は途中を西湘バイパスが横切る棚橋邸脇の浜端道
2007年9月6日の台風の折は波浪が西湘バイパスを破壊した

 いまでいうトマトのことを異人なすと呼んで食わず嫌いしていたのは、第一次世界大戦の勃発した1914年ごろのことで、日本はそのときドイツと戦争をしていた。戦争のため国内では主食が不足し米騒動が各地で起きていた。そうした最中にも畑に異人なすを栽培してそれを主食にしながら丸々と太り返っていたのが「ハンゾ、タナハシ」こと混血児棚橋半蔵であった。
 日本がドイツに宣戦布告したのと同時に、妻や両親を本国に残して彼は単身日本に亡命してきていた。戦争と亡命にまつわる疑惑の目が広大な洋館を取巻いたことはもちろん、警察は駐在所のほかにもう一つ派出所をおく物々しさであった。ハンゾ、タナハシなぞとローマ宇で書かれた表札も偽装のためだと極言されたほど手厳しかった。特にシベリア出兵以来、日本軍の遠征旅団が青島攻略で苦戦していた矢先であっただけに、なおさら懐疑の目で見られた。
 しかし敵側の合の子とか諜報機関といった役場や駐在所の言う枠から離れてこの人を見ると、その人柄は少しも憎めなかった。お相撲さんのように動じない恰幅にまずユーモアがあった。加えて異国帰りとは思えぬ庶民的な親近感が彼の行動から常に発散していたのである。それが諜報者の偽装だから油断は禁物と喧伝するその一方で、村人は棚橋を「旦那さん」と呼んでいたからであった。貧富という階級的な意識からではなく、もっぱら親しみの敬語で呼んでいたのである。
 旦那はドイツで生れ、ドイツで父親の日本言葉を生ま噛りに覚えただけであったから、日本語は片言であった。
 そのため喋る言葉はたどたどしく、時々ドイツ語を交えてわけの分らぬことを言ってみんなを笑わせた。笑うと日本人は目が細くなるのに旦那は目を大きくした。笑うのも異人語かと冗談を言う人もいたくらい、低音で愛嬌があった。
 役場の渉外担当の役人や駐在の巡査はそれが彼奴の偽装だと村人たちに忠告していた。旦那は道で会うとオハヨ、コンニチワ、と先に声をかけてお辞儀をした。しかし何故か「コンバンワ」の低音はいちども聞かなかったのである。そのわけは彼がかつて一度も夜の外出をしたことがないと分った。いったいあの広い洋館の中で、夜はどうしているのか、不思議であった。
 と思っていたある日、駐在の派出所から巡査がサーベルの音をさせて洋館に駆け込んでいった。
 突然のことに、村は大騒ぎになった。敵国ドイツから来た旦那はやっぱり諜報者だったのか、やっぱりそうだったのか、と村人たちは目を丸くしていた。旦那は両手を後ろに縛られて洋館から出て来た。しかし旦那は少しも動ぜず、ニコニコしていた。異人なすを食って丸々と太った旦那と、食糧不足で痩せ細った駐在さんとは対象的で、首を傾げてくすくす笑ってこの光景を見送る者もいた。
 旦那の容疑は固まったといっても至極単純で、もっぱら「コンバンワ」にあったという。
昼間はよく出歩くくせに、夜は家にばかり立て籠もってばかりいるのかが不思議だ、可笑しいと、そんな単純極まる疑問を忠義顔で駐在さんに告げた者もいての連行であった。このため警察は一日調べただけで、つぎの朝旦那はすぐに放免となったのである。
 旦那は相変わらずくったくのない顔で、堂々として帰ってきたが、駐在の巡査は連行した時よりももっとみじめな格好で無罪放免となった旦那の後からついてきた。洋館の前にきて旦那の後ろ姿に何度も頭を下げて陳謝している駐在さんの哀れな姿を見て、人々は狐につままれたように目を白黒させていた。
 警察の調べでは、旦那の目は夜盲症という鳥目と診断され、夜間の外出がなく「コンバンワ」といわないのと符合し、理由単純な拘引はこれまたいとも単純な理由で結局この騒ぎはあっけなく幕となった。
 そうしたある日のこと、村の餓鬼大将が二人、水浴び(海水浴)の帰りに浜端道を通ると、旦那が異人なすをとって食べているのを見た。
 「うまそうだのう」
と大将格の善太郎がつばをのみこんで言った。
 「臭えぞ。とっても臭えぞ。ぺっ。」
と子分の四郎はつばを吐いた。
 「おめえ、食ったのけ」
 「ウン、拾って食った」
 「拾ったんじゃ腐ってらよ。旦那さんみてえに赤いのとってすぐ食えばうめえぞ、きっと」 「取りにゆくべか」 「うん」
 話はすぐにきまって、その晩、人々が寝た頃を見はからって二人は畑に忍び込んだ。旦那の目が夜は見えないことをもっけの幸いと、二人は異人なす畑に近づいた。昼間の日向臭い匂いは夜になると青臭く変わり、接近するほどに目が回る強烈さで鼻をついてきた。善太郎は思わず両手で鼻を押えた。四郎も鼻をつまんでいた。
 しかし四郎は左手で鼻を、そして右手は猿のように長くのばすと紅く見事に完熟したーつをもぐと見るやがぶりとかじった。取ってすぐ食えば、の答えであった。しかし歯が飛び上がるほど浮いた。泪と鼻水で咽せる不味さで頬張った実は噛む勇気になれず吐き出してしまった。吐いたあとから顔をしかめながら、彼はもう一度痩せ我慢してかじった。口の中が強烈な酸味で痺れて感覚がなくなってきた。それでもかじっては吐き、吐いてはかじっているうちに、いつか吐くのを止めて噛んでいた。痺れたようになっていた口が次第に臭味に馴れてきた証拠で、食わず嫌いが慣れてくると味覚を剌激して大好きになる特長を異人なすはもっていたのであった。
 「うめえや。やっぱりうめえぞよ」
と四郎は我が舌を疑いながら、喜び勇んでもうーつもいだ。
 「善大よ、おめえも食え、うめえぞよ」
そう言って四郎は手当たり次第にとって懐にいれていた。
 この騒がしさに、夜の目は不自由でも耳は確かな旦那が目を覚ましたのであろう、洋館の一室がぱっと明るくなって窓が開くと、そこから旦那が顔を出した。
 「だれ、だれですか。もし、どなたですか。コンバンワ」
旦那のよくとおる低音に二人はびっくりして、夢中でそこから逃げた。
 善太郎の家の前まできて、立ち止まってからも二人は震えていた。夜は目が見えないはずの旦那に顔を見られて声をかけられたらしい不安と、初めて聞いた旦那の「コンバンワ」の刺すような低音に脅えていたのであった。
 翌日、旦那は学校に行った。そして担当の先生にトマト畑を荒す子供の盗人がいることを話した。
 先生はまさかと思った。訝しく思い、人が嫌うそんなものを食う生徒が私のところにいるはずはないと笑って旦那を帰したが、わざわざ来られた旦那の申し出を無視できないと思い、早速生徒を集めて言った。
 「お前たちの中に、だれかあの異人なすを食う奴がいるか、いたら手をあげなさい」
手をあげる者はー人もいなかった。
 「そうだろう、いないだろうよ。あんな青臭い西洋文明の食物を食う優秀な奴なんかこの学校にいるはずがない。もしいたらそいつは天才だ」
と、一体けなしているのかほめているのか曖昧ににごしていたが、生徒の中で背の高い関係から一番後列に立っていた二人の餓鬼大将は青くなっていた。それを横目で見た先生は、こいつらだなと思った。
 しかし先生はそれをあえて咎めず知らん顔をした。もしもこの二人が、異人なす食いたさに旦那の畑を荒した盗人だったとしたら、実は見事な奴らだと思ったからである。あの青臭い臭いをちょっと嗅いだだけでも唾したいほどにみんなが嫌っている異人なすを盗んでまでも食うとは驚きで、生活水準の低い餓鬼でなくまさに現代の文化人だと思ったからだ。咎めるどころか天晴れと賞してやりたいくらいだった。と言っても、まさか先生が盗んだらしいこ奴らを褒めるわけにもゆかず、小声で誰にいうとなく独りごちていた。
 「旦那は異人なすのことを英語でトマトと言っていた。トマトを食うのは西洋人でも文化人で、あの時コンバンワと声をかけると振り返ってこちらを見たのはここの学校の生徒だとも言っていた。偉い少年たちだと褒めておられた」

近年は種類の増えたトマト

 それっきり先生は何も言わなかった。餓鬼大将の二人もそれっきり異人なす盗人をやめたことはもちろん、よほど先生の思わせぶりな言葉に懲りたとみえて、家に引き篭もってばかりいた。外出しなくなったのは餓鬼大将ばかりではなく、旦那もあれ以来昼間、外で見かけなくなった。
 散歩好きな旦那がなぜ見えないのか、あの丸々と太った丈夫な人が病気しているわけでもあるまいに、と噂した。しかしそんな噂をぶっ飛ばすように折りしもこの時あわただしく号外の鈴が寒村にも鳴って、シベリア出兵を理由に対独宣戦を布告して参戦していた日本軍がドイツの租借地山東半島の膠州湾上陸作戦に成功したことを告げていた。
 ちょうどその時であった。駐在所巡査がまたも血相変えて洋館に駆け込んでいった。つづいて今度は腕章をつけた陸軍の憲兵将校がサイドカー二台の物々しさで洋館の前にとまったのである。
 号外とは別な異常な空気がこのーヵ所を支配して、人々は集まってきた。
 憲兵は長いことかかって大きな風呂敷包みを二個かかえて出てくると、群衆には目もくれずサイドカーに積み、もう一台に旦那を乗せた。しばらく見ないうちに旦那は気のせいか少し痩せて見えた。しかしいつものように左手を振ってあっ気にとられて見ていた群衆に向かって合図をした。その合図はいつかの時の直ぐに帰ってきますの合図ではなく、なぜか本当の別れのさようならをしているように淋しそうだった。なぜなら、この時群衆の前方にいた例の二人の餓鬼大将を見つけると旦那は懐かしそうに「オー、オー」と両手を横に広げる例のジェスチャアで親愛の情を現わし、涙を流しながら興奮した低音で言った。
 「トマトの好きな四郎君と善太郎君、もっと沢山いくらでもみんなとって食べてもいいですよ……」
それは親愛に加えて別離の情と受け取れる言葉であった。冷たく刺す低音でなく温味のある日本語だった。
 しかしその声は容赦無要と爆音を立てて走り去るサイドカーの砂塵とともに消え、それっきり旦那は帰ってこなかった。人の噂も七十五日とか喩えに言うが、一時は専ら持ち切りだったこの噂も、年が改まるとともに消えていった。ベルサイユ講和でドイツとの戦争が終結すると噂も消え、人々がこの噂を忘れてしまった頃のある日、洋館の表札がローマ字から日本文字に変わっていた。それを餓鬼大将の二人がさびしそうに見ながら通っていったのである。

現在は所有者が変わった棚橋邸跡地には
大きな樹木が茂り、昭和41年(1967)頃までは
温室があったとの記録が残っている。

(個人情報保護のため画像には加工を加えてあります)

 戦争が終わると必ずと言っていいくらいその始末記が解禁となって暴露的に報道される。
 その総てが戦争の副産物化したスパイ事件で、古くは独仏戦争後の十九世紀末フランスにあった売国疑獄で、アルフレット・ドレフュスが陸軍の機密をドイツに売ったとされる、ベストセラー「女優ナナ」の作者エミール・ゾラまで巻き込み大仏次郎の訳著で知られる「ドレフュス事件」と、そして日本海軍に黒い疑惑を報じたこの時の第一次世界大戦の「ジーメンス事件」、また今次太平洋戦争直前の1941年10月ドイツ人、リヒャルト・ゾルゲが日本の国内情勢をソ連(ロシア)にスパイしていた「ゾルゲ事件」この事件で、戦後日本の出版界にベストセラー旋風を巻き起した「愛情はふる星のごとく」と、この三大事件ともドイツが関係している。
 二宮の梅沢の浜へ行くただ一本しか無い道に添って混血児でかつてドイツ国籍であった亡命中のハンゾ棚橋別荘から、朝早く出漁のためにそこを通ってゆく、耳さとい漁師たちに聞こえて来たトンツー、トンツーと打つモールス信号器が憲兵によって発覚したのである。
第一次大戦の冒頭にあったいわゆるジーメンス事件がそれで、時の山本権兵衛内閣を総辞職に追い込み話題となって流行唄にまで歌われ、全国に流れた。
 ジーメンス事件とは、旧薩摩出身の武人で実力ナンバーワンを誇る、「やまもとごんのひょうえ」(山本権兵衛)の部下の海軍将校が、事もあろうに敵国ドイツの軍需会社ジーメンス社から多額の賄賂を受けていた、汚職のいわゆる走りであった・
 ドイツ人母系の旦那がジーメンス社の株をしこたま持っていたためとか、夜盲症を装って夜の外出をせず、夜間密かに本国へ無電を打っていたらしい、という噂は一時さかんに飛んだ。しかしいずれもいま主なくして真実を知るすべもなく、噂の発生がとだえるとともにこの事は忘れられていった。そして旦那が主食にしていた異人なす畑も忘れられたように荒れたままになっていた。その中にただ一つだけ忘れ切れないものが残っていた。荒れたままの畑に落ちこぼれた異人なすの種が土の中から春先の南風に吹かれて新芽を出したのである。夏になると生長して紅い実がなると思う。そう思いながら、例の善太郎と四郎が、“権兵衛さんが種をまきゃ烏がほじくる、せっせとほじくる”
と、大人のはやり唄を怒鳴りながら浜端道を行く姿に何か哀愁があった。
 旦那の遺していった異人なすは、昭和になるとトマトと呼ばれ、がぜん人気が出て普及してきた。東大教授で文化勲章の鈴木梅太郎が抽出したビタミンB、は米糠からで脚気に効くことで有名だがトマトはビタミンAとCの含有量ナンバーワンとして脚気にはもちろん夜盲症と診断された棚橋旦那の病気には特効があると言うお墨付きのあったのも皮肉であった。

著者紹介(図書館便りNo.26・二宮ゆかりの人物より)
松本昇平氏は明治6年(1906)に二宮に生まれ、平成11年(1999)10月93歳で亡くなりました。ふるさとの歌、二宮の昔話、吾妻の四季、子供の四季など、全12巻からなる著作の中に、これからの二宮を背負ってたつ若い人たちへのメッセージと歴史の証言になる思い出を綴っておられます。
今回、紹介した“異人なす”は伊勢治書店出版の「二宮の昔話」に収載されたものです。現在、この本は二宮町図書館に蔵書があり閲覧できます。
二宮町図書館ホームページアドレス
http://www.ninomiya-public-library.jp/
二宮の拠点となっている設備の整った町立図書館全景 図書館隣接の果樹公園 二宮の名所・吾妻山公園
お知らせ
この度、当サイトを見られた棚橋半蔵氏の孫に当たる平井絢子様(人形作家・タレント)からご連絡を頂きました。棚橋半蔵氏には日本に二人の娘があり、その内の一人である平井様の母上は90歳でご健在だと言うことです。近日中にお目にかかる予定ですので新しい“棚橋半蔵”の情報をお届けできると思います。(写真は平井様とご子息・2007/11/17)


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