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サボテン今昔 19
日本における棚橋半蔵氏の足跡
昨年(2007)秋、棚橋半蔵氏には日本に係累がおられるとのご連絡を、孫に当たる平井美矢子(ペンネーム=絢子)さんから頂き、本年(2008)4月12日、棚橋半蔵氏を直接知る半蔵氏の長女・中河久仁子さん(平井美矢子さんの母)にお目に掛かりました。 久仁子さんは、神奈川県から妙義山を眺める風光明媚な群馬県に移住なさり現在90歳、体格の良い大柄な方で子供の頃の記憶をあれこれ語って下さいました。

昭和6年頃の棚橋邸・棚橋氏がデザインしたロックガーデンが大切に保持されていた。(‘趣味の仙人掌栽培’より)

横浜貿易新報(大正61227日)

☆温室便り☆

二宮には棚橋半造氏の仙人掌温室数十坪あり種類は八百種、数は三千餘の多きに達す右の外県立園芸試験場園田幸吉、山川勇木、田原豊緒氏が何れも温室を経営して百花爛漫。(原文中には‘半蔵’が‘半造’と記載されている)

神奈川県二宮町の家にはサボテンマニアであった父半蔵氏の栽培品や鉢が多数あり、何故、こんなにサボテンがあるのかと不思議に思っていたこと、サボテンには興味が乏しかったのか、どのようなサボテンがあったかと言うような記憶は定かではないが、半蔵氏は横浜に所有されていた白亜の洋館で海外貿易の仕事に携わっておられたので、サボテンもその関係で日本に輸入されたのではないか…、ドイツから送信されてきた2人の少年の写真に対しては、「父の子供の頃の写真かも知れない、面影があるようにも思うけれど、私は生まれていなかったから分からない、昔のことね。」とか。

ドイツより送信されて来た写真 著書に新しくサインする中河久仁子さん 絵画作品の前で

久仁子さん自身については、昭和57(1982)年に再婚した作家・中河与一氏のもとで歌人として2冊の本を出版、絵画や長唄など多趣味な人生を歩んで現在に至ること等々。別れ際に「お茶も差し上げられなくて…」その代わりに長唄越後獅子の一節を聞かせて下さいました。

「♪♪♪ 来るか来るかと浜へ出て、見ればほいの浜の松風、音やまさるさ、やっとかけのほいまつかとな…♪♪♪」

久仁子さんにお目に掛かっての感想は写真でも分かるとおり、父系の顔立ちで目元がドイツから送信されてきた混血らしい少年の写真とどことなく似ているように思われました。久仁子さんが昭和32年(1957)8月に出版された歌集『感情線』には下記のような二首のサボテンを詠んだ歌が収載されています。

身内より燃え上がりくるものに堪ふる多肉質なるシャボテンの棘
愛情の餘剰ともみるシャボテンの多肉質よりいでし棘憎む

孫の平井美矢子さんが保存されている戸籍謄本、関係者から伺った話と海外からの情報等を含む資料を総合すると、
詳細な日時や正確な表記には不確実な部分もありますが、棚橋半蔵氏は下記の様な経歴の人物と推測されます。

棚橋半蔵(外交官・貿易商 日本国籍=神奈川県二ノ宮町山西)
 1885(明治18)年2月16日ベルリン生まれ
 父 棚橋軍次(外交官 1894(明治27)年9月17日 大磯にて死去)
 母 イーダ・フォン・ライプニッツ(旧姓ブラント)
1910(明治43)年25才で来日後の履歴
1910(明治43)年6月23日 久我ミチ子と結婚
1917(大正6)年・娘久仁子(中河久仁子=ペンネーム矢穂久仁子・90才・母=中村とく)をもうける。
1919(大正8)年4月26日・娘久子(母=久我ミチ子=五十嵐ミチ子)が生まれる。
1925(大正14)年協議離婚。
1939(昭和14)年11月21日、ドイツにおいて再婚 妻=シャルロッテ・アンナ・エマ・タナハシ。
1941(昭和16)年11月10日、ベルリンに於いて死去。享年56才。

掲載済みの記事、棚橋半蔵氏の業績、ドイツからのリサーチ二宮の昔話、は当サイトのトップページ左側コンテンツからご確認ください。この記事を掲載するにあたり、ご協力下さいました皆様に御礼申し上げますと共に、中河久仁子さんのご健勝をお祈りいたします。

中河久仁子さん宅 楽山園 甘楽の桜堤 大塩湖 妙義神社しだれ桜

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