傍 証   知 能

ADDと知能レベルはいつも関連づけられているので、ここでは知能に就いて書く。知能レベルとADDの関連性は無い、というのがこのサイトの立場である。これについてはADD者の場合知能レベルが平均より低いのが特徴だと言う専門家もいる。が、現実には、ADD者の知能レベルは低くはないし、むしろ高い傾向があるとさえ言われている。では、なぜADD者の知能が低いと言う説があるのかを検証したい。

そもそも知能とはなんだろうか。頭の良し悪しだと考えられるが、それを示す指数としてIntelligence Quotient=知能指数(IQ)があり、それを査定するテストがある。このIQテスト、いわゆる知能テストを受けた事のある人は大勢いるだろう。私も小学校の時受けた。本文にも書いてあるが、私の指数は相当良かった。が、私は自分の頭が良いとはとても思えなかった。

知能テストで頭の良し悪しが分かるのか、そもそも頭が良いというのはどう言うことなのだろうか。実は、これについては心理学者や精神学者が昔から色々意見を言っているが決め手はない、というのが本当らしい。知能とは、意識や自我、心全般と切り離せない物だろうし、その意識や心という現象自体がほとんど未知だと言うのだから、知能の定義は無いと言えるのではないか。

むろん、あの人は頭が良い、あの人はどうも頭が悪いとは誰でも言うし、そういうだけの漠然とした判断基準はある。物覚えが良い、常識がある、物をよく知っている、判断が速い、推理力がある、物事がよく理解できる、話がうまい、人の心がよく分かる、暗算がうまいなどなど。それから、漠然と考えられているのが、頭の良し悪しは生まれつきで決まっている、犯罪を犯す人間は頭が悪い、医者や弁護士、科学者などは頭が良い等々。とどめは、知能テストで高得点を取れば頭がよい。

が、実はそう単純でもないのだ。単純に例を挙げる。鮭は生まれた川の水の臭いを覚えていて一年後に帰ってくる。臭いを覚えているだけでも大変だが、広い海から古里のほんの小さな河口まで帰ってくる能力はまだ解明されていない。鳩が地形を記憶して何百キロも飛んでいることが分かっている。山や草原などの景色を上から見てもどこもかしこもよく似ていて、我々が道路標識や住所を頼りに旅行をするのとは訳が違う。鳩の図形認識、記憶能力は遥かに人間を凌駕している。このような動物の能力は枚挙にいとまがないが、それをもってして彼らの知能が人間より優れているなどとは言えないだろう。

さらにもっと人間に近いチンパンジーの例だが、チンパンジーの記憶力や判断能力は人間より優れていて、大学院生5人がスーパーチンパンジーとして知られているアイと競争し、3人が勝てなかったそうだ。

動物の例など無駄だと言うなら、人間の例を挙げよう。

言葉はなめらかなのに計算はだめ、物事をよく知っているのに常識がないなどはよくあることだし、驚異的な記憶力を持っているのにまともにしゃべれず、文字も覚えられず一桁の計算もだめという人間もいる。貼り絵で有名な山下清は軽い知的障害があったが、並外れた記憶力を持っていて、放浪先で見た景色をその場でスケッチするなどせず、帰ってきてから驚くほど正確にその景色を思い出して作品を作っていた。数千曲を暗譜して即座にピアノで弾ける知的障害者もいる。

もっと当たり前に見聞きする例を挙げてみよう。食事時のラーメン屋が混んでいるのは良くあることだが、そこのラーメンがうまくて場所が良くて安かったりすれば、もう身動きもままならないほど店内はごった返している。外に何人も並んでいるので、食べ終えた客は直ぐ出て行き次の客が着席して注文を出す。当たり前の景色であり、客は満腹して幸福な気持ちで金を払い外に出ればよいのだが、実は当たり前ではないことがある。その店のベテランの親父が、次々に告げられる客の注文を間違いなく聞き取り、その通りに作りそれだけではなく店が終わってから自分の記憶だけで集計して間違わないというのだ。今はレジスターやそれに直結した端末があり、仮に2千円や3千円あわなくとも別に気にしない事もあるらしいが、ベテランのラーメン屋では記憶だけできちんと処理しているのだ。このラーメン屋の知能はずば抜けているのだろうか。まだ他にも例がある。ベテランのホテルのドアマンは、何百何千人もの客の名前や家族構成などをきちんと記憶していたり、ベテランの料亭の女将はなじみ客の味の好みや体調を知っていて、節目節目にそれぞれに挨拶状を出すなどなどを記憶だけでやっている。定年退職後に料理屋の下足番になったある人は、下足札など渡さずに、何百人もの履き物を管理し、その客が出てくると間違いなく履き物を出すという。

このような例は、とくに珍しい話でもないし、誰でも自分の専門分野では一度聞いたことを記憶し整理し結果を出すなど当たり前にやっていることだ。専門外のことについてはほとんど覚えられず理解できないと嘆いている人が、自分の仕事や打ち込んでいる趣味についてはそうなのだ。そして、自分でそれを当たり前だと思っているから、自分の能力を意識していない。

はっきり言えることは、頭は使えば良くなる。使わなければ悪くなる。記憶、想像、理解、組み合わせ等々全てに優れている人間はいない。得意不得意があり不得意分野も訓練でいくらでものびるのだ。犯罪者の知能は一般に低いというのも,知能が低いから犯罪を犯すのではなく、犯罪を犯すような環境にいるから知能が低いと見られるのだ。詐欺などの知能犯はのぞく。また、ベテランの空き巣は下見から忍び込み、逃走まで実に短時間に行い、その集中力は常人の及ぶところではない。したがって、ここで言う犯罪とは粗暴犯罪を言うが、実は連続殺人犯の中には際だって知能の高いものがいる。知能が高いから、何年にもわたって犯行を隠し、何人も殺すことが出来たのだ。彼らは頭が良いのだろうか。とてもそうとは思えない。頭が良ければそんな犯罪は犯さないのではないか。知能は高いかも知れないが、頭がよいとはとても思えない。だから、頭がよいとはどういう事かが問題になる。

インドのジャングルで時々動物に育てられた子供が発見されることがある。8歳過ぎて発見された場合、どんなに教育をしても言葉も話せず立って歩くこともできないそうだ。生まれてから何年かの内に学習をしないと、その後ほとんど学習出来ないというのは良く知られていることだ。絶対音感は4、5歳までに身につけないと、その後は絶対に無理だし、バイオリン演奏なども4、5歳から始めなければ本物にはならない。

新生児の脳の重さは平均800グラムで成人では1400グラムである。およそ倍にまで大きくなるわけだが、神経細胞自体の数はおよそ150億個で変わらない。むしろ、毎日2、3万個から10万個ほどづつ死滅している。脳が大きくなるのは、神経節つまりニューロンの発達とグリア細胞の増加による。新生児の脳は白紙状態で脳細胞同士が結びついていないが、急速に神経細胞によるネットワークが形成されて行く。そうやって、大体15歳までには大人の脳と同じ密度になる。その途中で大体8歳くらいになるといったん最大限に形成された神経細胞のネットワークの半分ほどが死滅してしまう。その時期を臨界期というが、その後に学習をしてそれまでに得た機能を充実して行くわけだ。その後も新しい学習は出来るが、臨界期以前の学習とは比べものにならない小さな規模でしかない。だから、8歳までに2カ国語で育った人は言語野にきちんとそれぞれの言語用の専門の領域が出来るが、8歳以後に外国語を勉強した場合、同じ領域に詰め込まれてしまう。けっきょく、生涯2カ国語を完全に分離して処理することが出来ないわけだ。

とにかく、3、4歳から英才教育を施すのは非常に有効だと言えるが、何しろ時間も本人の興味も体力も限られている。従ってある分野で英才教育を施すと他の分野で正常な学習が出来なくなる。音楽学校の英才、すなわち音楽で英才教育を施された人たちをテストすると、言語野の発達が非常に遅れている傾向がある。言語処理能力を犠牲にして音楽を学習してしまったわけだ。スポーツ万能選手が非常識だったり言語不明瞭だったりする例は良く見聞きするが、どうもそんなことなのではないか。

もっとももって生まれた才能もあるから、誰でもが本物になれるわけではないが、仮に才能があっても、20歳から練習をしたのでは、絶対にプロのバイオリニストにはなれないだろう。もちろん、趣味でやる分には何歳から始めてもそれなりに上達はする。家族は閉口するだろうが、時々レストランにでも連れ出せば我慢してもらえるだろう。また、臨界期以後の学習も個人の意欲や能力で大きく変わる。アグネスチャンやフランソワーズモレシャンの日本語はどうしてあれほど下手なのかと首を傾げるが、ヒデとロザンナのロザンナさんや東関親方、小錦などの外国人関取の日本語はほとんどネイティブと変わらない。

そんなわけで、文明度の低い地域で育った人間はどうしても能力を発揮できず、知能テストを受けても惨憺たる結果になるだろう。アフリカや中南米、アジア,ロシアなどで未だに原始的な生活をしている人々にも同じ事は言える。それでも、彼らの中からたまたま子供の内に文明度の高い国々で育った人たちの知能レベルが決して他の人たちに退けを取らないことは証明済みだ。麻薬やアルコール、犯罪に浸り子供に全く関心を持たない両親の子供の知能レベルが低いのも同じ理由だ。犯罪を犯して刑務所にいる人間達の知能レベルが低いのもうなずける。

逆に、日本人の知能レベルは世界でもトップレベルなのだそうだが、これも当たり前といえる。日本の子供達はとにかく短時間に要領よく答えを出す受験目標の勉強をさせられている。これは、知能テストの練習をしているようなものだ。知能テストは練習でいくらでもポイントが高くなる。中には、知能テストの訓練をする塾があって、そこに通わせたわが子のIQテストの結果に一喜一憂する頭の悪い親がいるとか。私が9歳の時に受けたIQテストでは、120を越す生徒はほとんどいなかった。これは後から先生に、「ロクスケはそれよりももっと上なんだから、勉強すれば成績が上がるんだ。おめははんかくせぇんじゃねぐて、勉強を馬鹿にして怠けるからだめだんだべよ」と聞いたのだが。一般でも、IQ120というと相当のハイレベルだった。それが、今では120はおろか、150,180、200などという子供がぞろぞろ出てくる。テストの練習をした結果の知能指数など全く無意味なのだ。

高い知能レベル=頭がよい、という問題はさておいて、この知能テストが果たして正確な結果をもたらすかは、上記の練習を別としても,まだ疑問が大きい。知能テストには様々な方法があり、筆記テスト、質問方式のテスト、図形などを見せて何を連想するかを見るテストなどがある。いずれにせよ、被験者は反応レベルが早く、質問を素早く理解することが必要となるし、時に運動能力も必要とされる。しかし、これらの能力は頭の良し悪しから言えばごく一部であり、質問の意味を素早く理解できない、素早く反応できない、素早く書いたり答えたり出来ないから他の能力も全て劣るなど到底言えないだろう。が、実際は、反応、理解、運動能力があるレベル以上にないと、知能テストでは本来の総合的な能力は分からない。また、上がり症で、大勢と一緒にテストを受けると能力が発揮できない、試験者に畏怖を覚えてろくに答えられない場合も知能レベルが低いと査定される。これはどう考えてもフェアではない。

さらに思考形式の違いも問題になる。IQテスト問題は、普通の人間が普通の常識に基づいて作る。が、答える方が常識を持っていなければそのテストに良い結果が出るはずがない。普通人間は言語で思考すると言われている。が、画像で思考する人間も居るのだ。動物は言語を持たないから、画像で思考をしていると考えられる。それを考えれば理解しやすいだろう。直感力に優れた思考方式で、理論的な思考とは別に物事を誤り無くとらえることが出来るだろう。だが、IQテストはそういった人たち用には出来ていない。また、人間は数分から数十年の単位で考えることになれている。人間独自の生物時間で生きているからだが、この生物時間がずれている人たちが居る。誰でも経験することだが、至福の時間はあっと言う間に過ぎ、苦痛の時は長く感じる。これが生活全般にゆっくりしている人は、普通とは違う世界に住んでいるのだ。

一般の人を対象としている知能テストに、いかに不備があるか分かると思う。そこで、ADD者の障害を思い起こしてみると、どうしてもIQテストを受けるには不利なようだ。これが単純にADD者の知能が低いと言う説に結びついているのではないだろうか。また、印象として、社会、特に日本型均一社会になじまないADD者が一般から単なる印象として、”頭が悪い”という予断を生んでいるのかも知れない。

ところで、もう一つの命題だが、頭の良いとはどう言うことかだ。現実には統一見解がない。で、漠然と一般に考えられているだろう基準として、知能をどう使えるかによるのではないか。知能とは色々な能力の総称であり、記憶、判断、空間処理、計算、図形処理、言語能力等々で蓄え整理し処理した情報をいかに利用するかで頭の良し悪しが判断できる。単に自己満足だけに使う、なんにも使わない、犯罪に使うなどは決して頭がよいとは言えないのではないか。幸福追求のために使い、その幸福をしっかりと想定でき、その結果得た幸福感をきっちりと受け止められる能力があれば頭がよい。ただし、何を持って幸福をするかはまた別の問題だ。

あと、私が想定している頭の良さの基準だが、充実した内なる世界を持っていると言うことかとも思う。言い換えればより明確な自我を保っているということではないのだろうか。

参考としては:
「唯脳論」         養老孟司著     青土社
「ここまでわかった脳の話」 澤口俊之著     同文書院

などがおもしろい

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