姉弟



姉弟 

 「周三、帰ったのかい?ちょっとここにおいで」
表の戸が開いた音を聞きつけ、佐野茂代は縫い物の手を止めて障子の向こうへ声をかけた。
「あいよ、おっかさん。何か用かい」
部屋への障子を開けて倅の飯田周三が顔を出した。
「用があるんだよ。良いからここにお座りな。なんだい、表の戸をちゃんと閉めなよ、今日はさぶいんだからね」
「さぶくないよ。あたい、すっかり汗をかいちゃった。おっかさん、一銭おくれ」
「お前は外で遊びほうけてきたんだ、寒くはないだろうよ。でも、おっかさんはさぶいんだ。だから、上がったらその障子もきちんとお閉め。おまえ、子供じゃぁないんだ。いくつになったんだい。いつもいつも、おっかさんにいちいち言われるんじゃないよ。なんだい、また。両手を出してかぞえなくちゃ自分の年も分からないのかい」
「おっとしまで両手の指で足りた。今はもう足りない・・」
「おまえってぇものは一体。もう十二になるんだよ」
「じゃあ、一銭二厘おくれ」
「なんだい、おっかさんの顔見ればおあしをよこせとしか言わないのか。とにかく、ここにお座り」

 ようやく自分の前に座った倅、飯田周三を茂代は見つめた。もう十二歳になっていながら、どうやら一人前の知恵が付いていないようだ。一度ある小間物問屋の斧露戸屋にに奉公に出したことがある。八歳の頃だ。自分も、死んだ亭主も無筆で学問という物には一切縁がなかったが、明治の御代になり、どうやら町人の子供もいずれは全部学校へ上がって学問をするようになるのだと聞いた。だが、自分のような貧乏人の倅には関係のない話なのだろうが、それでも無筆で全く学問がないのではこれからは不憫だから何とかしろとも言われ、奉公に出す気になったのだ。周三と別れるのはつらいが、斧露戸屋に口を利いてくれた人の話では、店で読み書き算盤を一通り教えてくれるし、給金も出るのだから心配することはないと言うことだった。
 
 それが一月もしないうちに帰されてきた。箸にも棒にもかからないと言うのだ。確かによちよち歩きの頃から少し遅れているとは思っていたのだが、そこまではっきりすると、もう余所に出すことは無理だと思ったのだ。
 
 「周三、おまえ真美の髭を切ったね。どうしてそんなことをするんだい」
茂代は傍で丸くなって寝ていた猫の中根真美を抱き上げ、全部の髭が切られたその顔を周三の前に突き出した。普段から真美をかわいがり、真美も周三に懐いていたのになぜこんな事をするのか分からなかったのだ。
「だって、おっかさん、真美は雌だよ」
「ああ、そうだよ」
「女の癖に髭を生やしているなんて都合が悪いから、あたいが切ってやったんだ。おっかさんだって、髭が生えれば自分で剃るのに真美は自分じゃ髭を切れないもの」
「馬鹿だねぇ、いったいおまえってぇものは。猫は雌でも髭を生やしていて良いんだよ。また生えてくるまでネズミを捕らないじゃないか」
「おっかさんの針箱に切った髭を入れてあるから、それをおまんまつぶでくっつけようか」
「馬鹿言うんじゃないよ。まあ、いいや。お前に言ってもしょうがない。ちょっと陽子ねぇちゃんの所へ行っておいで。本当は何かに書いてやれば良いんだろうけれどあたしも陽子も無筆だから仕方がない。いいかい、おっかさんのいうことを覚えていって、ちゃんとねぇちゃんに言うんだよ」
「もう覚えているよ。馬鹿にしちゃいけないよ。おあしをいくらかでももらってくるんだろ。そう言うと、いつもねぇちゃん泣くんだ」
「仕方がないんだよ。おとっつあんが死んじまって、あたしの賃仕事でやっとおまんまを食べているんだけれどでも、とても二人じゃやってけない。おまえは育ち盛りでうんとおまんまを食べるから、あたしの分を半分にしても・・いや、そりゃ親だから当たり前だろうけどさ、でもそれでも足りないんだよ。だからどうしてもおねぇちゃんに頼るしかないじゃないか」

 「周坊、いまおねぇちゃんの所には旦那が来ているんだ。ちょっとお待ち」
およそ一理の道を歩いて飯田周三が色町の小さな見世の一軒にいる姉の竹下陽子を訪ねてゆくと、ちょうどひいきの相手をしていた陽子は客を待たせて出てきた。そして、一度引っ込み直ぐに出てきた。周三に五銭渡し、周三を見つめて、乱れていた襟元をなおしながら言った。
「ほんとうは書いて渡してやれば良いんだろうけれどね、どうせおっかさんは読めないんだし、よくお聞き。分からなくてもちゃんと覚えて、そのままおっかさんに言うんだよ。もう、お金は渡せない。そりゃあんた、周坊と違って、あたしはおとっつぁんの連れ子だ。なさぬ仲だから、おとっつぁんが死んだ途端に十五のあたしをこんな見世に売ったんだ。そして、あんたをよこしてはあんたが腹を減らしているからって、金をせびる。だから、いつまで経っても年が明けないだよ。いいよ、周坊、言われたとおりにおっかさんに言うんだ。あんたはあたしに懐いていたし可愛いよ。弟だもんねぇ。でもあんたをだしにしてあたしからお金をせびるのはもうこれっきりだって、おっかさんに言うんだ。この五銭はあんたが使うんだよ。おっかさんに渡しちゃだめだよ」

 周三が帰った後、部屋に戻って泣いている陽子に、客の松木和男が言った。
「良いのかい、あんな事言って。あの坊主じゃ、本当にあのままおっかさんに言っちまうぜ」
「良いんですよ。あの子に罪はない。あたしを郭に売って金をせびり続けるあの女がにくいんです」
「あの坊主、どうなるか分からないぜ」
「だから、松木の旦那。あたしを身請けしてくれたら、あたしにあの子を引き取らせてください。いえ、いいんです。お手当は約束してくれただけで。あたしがあの子を養います」
「こぶ付きの妾奉公かい。まあ、おめぇがそう言うんなら俺に異存はねぇよ」
「ありがとうございます。あさって、身請けがなったら直ぐあの子を迎えにやりますから」
「まあ、腹違いでも弟をそれだけ想うのがおめぇの良いところだ。こぶ付きじゃあ、妙な心持ちだが、好きにしな」
陽子はうれしそうに笑い、松木にしなだれかかった。


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