あの夢


「陽子、逃げなさい。お母さんは直ぐ後から行くから、とにかく逃げなさい」
母、佐野茂代が陽子の方に必死に手をさしのべ、煤だらけの顔を持ち上げてとぎれそうな声で叫んでいる。倒れた太い梁の下に挟まれていて、右腕だけを辛うじて伸ばしているのだ。だが、陽子も身体が動かず、とにかく伸ばされた母の手を掴もうと身体を乗り出すのだが、どうしても手が届かないのだ。
「かあちゃん、かあちゃん、嫌だ、あたしも一緒に行く」
「いいから、母さんは直ぐ行くから先に行ってて。お願い、・・」
最後の言葉が、崩れ落ちる炎にかき消された。そして母の姿が一瞬火に包まれたように見えたが、その時グイと身体が持ち上げられた。身体が動かなかったのは、しっかりと誰かに抱き抱えられていたからだ。

「さあ、行こう。かあちゃんは後から来るよ。だから行こう。危ない。もうここにいてはだめだ」
陽子は力一杯暴れたが、大人に抱きかかえられたのでは動きようがない。そのままその場から連れ出された。安全な場所に出た途端に、陽子の家が大きく崩れ、そして真っ黒な煙の中に赤い炎がすさまじく立ち上り、辺りを真昼のように照らした。

その明かりの中に、何人かの大人が立ちすくみ、今まで消し止めようとしていた家が燃え落ちるのを見守っていた。火を消さなければならない家はここだけではない。もう焼け石に水で、ここも危なくなる。なにしろ、辺り一面がもう火の海なのだ。

「もうここも危ない。あきらめよう。逃げないとみんな焼け死ぬぞ。俺はこの子を連れてゆく」
自分をを抱きかかえた男がみんなに声をかけ、みんなは一斉に走り出した。燃えさかってっいる家を一瞬振り返った。気のせいか、母の声が聞こえたような気がした。
「おじさん、降ろして。一緒に行くから」
「そうか。とにかくしっかりしろ。今夜だけで多分何千人も死んだんだ。お前だけでも無事に生き延びなければかあちゃんが悲しむからな」
男は陽子を下ろし、それから逃げてきた方を振り返った。すさまじい炎が一面を覆い、灯火管制で真っ暗な夜の低い雲に反射してその光景はいつまでも記憶に残った。

「おい、どうした。またうなされているよ」
夫の飯田周三に揺り起こされ、竹下陽子は目を覚ました。また同じ夢を見たのだ。全身に冷たい脂汗をかき、まだ胸が激しく鼓動している。そして、陽子はまた自分が泣いているのを知った。
「同じ夢を見た。空襲でお母さんが焼け死ぬ夢だった。でもどうしてそんな夢を見るんだろう。空襲なんて、わたしが知っているわけがないのに。わたしが生まれる三十年も前の事だし、それにお母さんは田舎でぴんぴんしている。どうしてそんな夢を見るんだろう、それも何度も何度も」

布団の上に起きあがり、陽子は息を整えながらつぶやいた。
「やっぱりあの夢なんだね。誰かに子供の頃にでも空襲の話を聞いたのが夢になっているんじゃないか」
「そうなのかなぁ。でもあんまり哀しい夢だよ。お母さんは終戦の年に小学生になったばかりだったのよ。お父さんも中学生だった。どんなに考えても、わたしの親兄弟や親戚で大空襲にあった人は居ない。みんな田舎にいたから、戦争中でも割合食物なんかは不自由しなかったし空襲なんか無かった」
「そうだよねぇ。お父さんの代で東京に出てきたんだろう?誰の夢を見ているのかなぁ」

あまりにリアルで、夢で見た光景はありありと覚えているし、母親の必死な顔や自分の泣き声まで覚えている。だが、母親と分かっているのだが、夢の中で見た母親は、実際の、田舎にいる母親ではない。五年ほど前に両親は昔出てきた田舎に引っ込んだのだが、頻繁に電話のやりとりをしているし何度も会っている。母の佐野茂代は田舎に引っ込んでから元気になったと喜んでいるのだ。だが、夢の中で見た全く別人の母親も、間違いなく佐野茂代だったし、その場にいるはずのない自分も明らかに竹下陽子だった。

「もう目がさえた。起きるわ。あなたは寝ていて。わたしは居間の方で本でも読んでいるから。また同じ夢を見そうで怖いし」
「一人になったら怖いだろう。ここにおいで。俺がしばらく抱いててやるから」周三の布団に移り、抱きしめられていると、確かに安心する。陽子はいつの間にかまた眠った。

その年の夏休み、陽子と周三、そして子供達はいつものように田舎に帰った。二人とも同じ田舎に実家があるので、今では実家同士が親しく行き来をしているし、陽子達が帰ると二軒の実家を交互に訪ねることになる。そして、自分の実家に帰った時、陽子は母親の茂代に、夢の話をした。

じっと聞いていた佐野茂代は、気が付くと目を閉じ、涙を流していた。
「どうしたの、母さん。あんまり哀しい夢だったから?」
「その夢の中であんたを助けてくれたの、この人だよ」
茂代は陽子を仏壇の前に連れて行った。中に祖父の松木和男の位牌がある。
「おじいちゃん?」
「本当のこと話すよ。あたしのお父さんは兵隊に行って戦死した。あたしは母親と東京に残ってたんだよ。そして大空襲の日、家が焼けて、あたしの母親はあたしの目の前で焼け死んでしまってねぇ、その時あたしをその場所から抱きかかえて連れ出してくれたのが、この人、あんたのお爺さんだ。たまたま田舎から親戚の安否を尋ねて、食べ物を持って来た途中で空襲にあって、あたしを助けてくれたんだ」
「本当のおじいちゃんじゃないの?」
「あたしは本当の父親だと思っているよ。火事から助けてくれただけじゃなく、あたしを連れてきて育ててくれたんだから。当時の役所の記録がうやむやになっていたから本当の子として届けてくれた」

陽子はその時気が付いた。夢の中で自分を抱きかかえ走っていた男の顔は、確かに仏壇の上にかけてある祖父の写真の顔だったと。

by ロクスケ







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