婆ちゃんの糠漬け

 「もうこの糠漬けはないのか?」
亭主の飯田周三に言われて、佐野茂代は手を出しかけていたナスの糠漬けの最後の一切れから手を引っ込めた。
「いや、そうじゃないよ。食えよ。つい、お前の漬ける糠漬けがうまいから食べたいと思っただけだし、どうせ明日はまた出てくるんだろう?」
「さっき、これを出すとき漬けたから、明日の朝には食べられるわよ。いつも作りすぎると余っちゃうし、余るとおいしくなくなるから少し足りないくらいに漬けるの。でも、これから少し足すわ。そうすれば明日たくさん食べられるでしょ」
「ああ、ありがたい。でも明日の夜で良いよ。朝はどうせゆっくり食べてゆく時間はないんだから」
「そうよね、朝残ったのを昼間あたしが食べるんだけれど、どうもおいしくないし」

 茂代は周三と結婚した四十年前から、一日も欠かさず糠漬けをかき回し、新しい野菜を洗って切って、塩をまぶしてから糠漬けの樽に入れる。代わりに前日漬けておいた分を取り出し、洗って刻み食卓に出す。これを欠かしたことがなかった。周三が婿に入ったそのずうっと前から、すなわち十二,三の頃から母親の竹下陽子に教えられ、糠味噌を漬けている。毎回糠味噌をかき混ぜてから少し嘗めてみて、塩が足りなければ足すし、塩が多いと思ったら塩をまぶさない野菜を漬ける。
 
 定期的に布巾を入れて余分な水分を吸い取らせ捨てる。味を見、こなれ方を見ながら時に応じて新鮮な炒り糠を作り足す。芥子を足したり鷹の爪を増やしたり出汁昆布を入れる。ショウガも入れるし、酸っぱくなったかと思えば良く洗った卵の殻を砕いて入れる。それは味を見ながら、季節や温度湿気と考え併せて微妙に調節しながらぬか床の状態をいつも最良に保っておくのだ。
 
 家にはもう何百年も経ったという大きな木の樽で糠床が作ってあり、一度も入れ替えたことがないのが誇りだった。母親の竹下陽子は、折があることに茂代に教えた。
「良いかい、糠床はその家の宝なんだよ。確かにね、昔と違って今は一年中野菜が買えるから、わざわざ漬け物を漬ける人も居なくなったけれど、でも糠漬けって、日本人が考え出したもっとも優れた食べ物なんだ。唯の野菜だって栄養がたくさんあるけれど、糠のビタミン類を野菜にしみこませて食べることが出来るって、昔の人はもちろん考えなかった。でも、結果として白米を食べることで起きる脚気を、糠漬けのビタミンで防いでいたんだよ。だから、糠漬けを庶民の食べ物だって食べなかった武士階級や公家の人たちは本当に大勢が脚気で死んでいる。糠漬けを食べていた庶民はそれで脚気にならなくて済んだんだよ」

 糠漬けをかき回すたびに陽子を思い出す。陽子はとにかく糠漬けさえあれば他に何も要らないと言っていたのだ。それほど糠漬けが好きで、毎朝毎晩食べていた。十年前に居なくなるまでそうだったのだ。
 
 ある日突然陽子が居なくなったので、周三は大慌てで警察に捜索依頼をし、自分でも探した。もちろん、茂代も探しはしたが、前々から陽子に言われていたので、覚悟をしていたのだ。いつかこんな日が来ると。
 
 娘の中根真美はいずれ結婚し、そして婿を取るだろう。それが代々続いているのだ。真美にも糠漬けの大切さを幼い頃から教えている。陽子も教えたかもしれないが、真美が七歳の頃陽子は姿を消したから、茂代がこれからもきちんと真美に教えてゆかなければならない。まだ真相は伝えていないが、いずれ伝える日が来るだろう。
 
 そんなことを考えながら、茂代はまたナスやキュウリを洗い、塩をまぶしてから大きな糠漬けの樽の蓋を取った。そして、中から昨日漬けた野菜を取りだし、さらに大きく糠を掘り下げた。やがて、母親、竹下陽子の顔が見えた。
「お母ちゃん、昨日入れたナス、おいしかった?」
「ああ、おいしかったよ。新鮮だからねぇ。で、今日はナスとキュウリと・・ああ、茂代、キャベツも入れると良いよ。それと、そろそろミョウガや小松菜なんかもね。あたしは大好きなんだ。大丈夫だよ、全部食べやしないから。ちゃんと明日の今頃までにはおいしく漬けておくからさ」
「お願いね、お母ちゃん」

 漬け物を母親に託し、茂代は母親にほほえみかけてから糠を平にならした。糠床の中では陽子が早速熟成させ始めているだろう。陽子がその母親と入れ替わってからおよそ十年、一日も欠かさず母親に食べ物を届け、おそらく三十年ほどしたら自分が陽子と入れ替わるのだ。これが代々の糠漬けの秘訣なのだが、むろん周三は知らないし、真美もまだ知らない。







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