凋落

 「ご苦労様でした、部長」
課長の竹下陽介に言われ、飯田周三はうなずきながらがらんとした濡素六商事株式会社第二営業部の室内を見回した。夜の七時なので会社としてはまだまだ多くの人間が働いているはずだが、それでもだだっ広いオフィスには空席が目立つ。営業という職種柄、多くの社員が外にいるのと、女子社員は殆ど退社した後だから、残っているのも課長を含め数人足らずだ。

 本来なら飯田も外にいて、今頃の会社にいたことは滅多にない。今まで社長に挨拶をし、専務、常務のところに挨拶してきて、今自席に戻ったところなのだ。
「竹下君、いつもこの時間はこのくらいしか居ないのかい?」
「いえ、今日はちょっと少ないようです。〆が近づいてますからね、みんな外回りでがんばって居るんですよ。部長ががんばってこられましたからねぇ、みんなもがんばるようになりました」
本来なら竹下の言葉には若干皮肉が含まれているのだが、飯田は気が付かなかった。自分の定年退職の日なのだ。朝から得意先回りをして定年退職の挨拶をし、会社に戻ってからよその部署に挨拶に行き、最後に行った専務室で少し話し込んでから帰ってきたら思ったより時間が遅くなった。

 机の上には、自分でまとめた私物の段ボール箱と、花束が置いてある。本当は女子課員が手渡してくれることになっていたのだが、飯田が帰ってくるのが遅れたので、花束だけ置いて退社したのだという。
 
 「で、みんなどこかに集合することになっているのかい?」
飯田の問いに、竹下はえっという風に飯田の顔を見た。そして、すぐに気が付いた。飯田は送別会のことを言っているのだ。
「ああ、いえ、なかなか月末で忙しくみんながそろって時間を取ることが出来ないんです。いずれ予定をきちんと決めて、それからご連絡いたしますよ。それでも、飯田さんはこれからも会社に時々お見えになるんでしょう」
「そうだね、時々顔を出させてもらうかも知れない。なんと言っても俺が三十年以上過ごした場所だからなぁ。じゃあ、竹下君、予定が決まったら早めに連絡頼むよ。俺も退職したらすぐにやることがある。準備を始めなくちゃならないんだ。だから忙しいしね」
「そうですか、飯田さん。何をされるんですか?」
「自分の会社を立ち上げる。いろいろな人が応援してくれるし、今まで築いた人脈も役に立つだろう。もしかしたら、君にも声をかけるかも知れないよ」
「そうですか。その折は是非」
「じゃあ、俺はこれで帰るよ。みんなによろしく」
「分かりました、飯田さん。お元気で」

 今まで自分の前では飯田部長と言っていた竹下が、最後には飯田さんと言っていた。少腹立たしかったが、事実自分はもうこの会社とは五時の時点で縁が切れ、部長でもないし竹下の上司でもない。ほぼ二十年間竹下は部下として仕事を教えてきたが、しかしそれを言っても仕方があるまい。今後も顔を合わせることはあるだろうし、有能な男だから、なんなら自分の仕事を手伝わせても良いと思っていたのだ。
 
 次の日から、飯田は手始めに取引先だった参土機械開発に出かけ、濡素六商事の担当者、松田朗に会った。松田は訪問した飯田を今まで通したことのない玄関ホール脇の業者専用面談ペースに通し、自分で自販機からコーヒーを運んできた。今までは社内奥の立派な応接室に通してくれて、女子社員がコーヒーを入れてくれたのに随分変わるものだと飯田は驚いた。
 
 飯田が持ち込んだ企画は松田の興味を惹き、是非試作品が欲しいという。業界を知り尽くした飯田ならでは思いつかないアイデアで、これはフリーに動ける飯田が是非手がけるべき商品だと松田は褒めちぎった。ただ、すぐに社内で通るわけではないので、そのためにも試作品が欲しい、それがあればすぐに社内で正式に企画として通り、予算も付くはずだ、と松田は言った。会社設立に行政書士の費用がかかり、また試作品の費用が馬鹿にならないが、預金や退職金などは十分にある。これは初期費用として負担しても、軌道に乗ればすぐに取り戻せるのだ。飯田は鷹揚に笑った。
 
 飯田は次に今まで様々な製品の試作や調達を頼んでいた斧露戸製作所に行き、濡素六商事の担当者、松木和男に企画の説明をして試作を頼んだ。松木は企画のすばらしさを褒め称え、格安で見積もると約束した。飯田は、本当は従来通り無償で試作させるつもりだったが、飯田個人では仕方がないのだと思い直し、百万円ちょっとの試作費を負担した。すぐに取り返せるはずなのだ。
 
 その企画は結局参土機械開発では時期尚早ということになり、それが本格化するまで次の企画にかけようと松田は言った。次の試作品の調達にまた費用がかかった。今まで営業コスト内として只で引き受けてくれた会社が、今回はどうしても社内でOKが出ないと担当者が言ったのだ。
 
 いくつかの企画が流れ、飯田は本当のところを訊きたいと参土機械の松田を呼びだし、現役時代自分が接待に使っていた高価な料亭で話したた。松田は、今会社自体が不景気で、上層部が臆病になっているのだと謝った。飯田は今まで自分が払ったことのない請求書を料亭から渡され初めてその金額が莫大であることを認識した。
 
 スポンサーが要ると考え直した飯田は、今までの人脈を使ってしっかりとしたバックアップ体制を作ろうとしたが、今まで千年の知己のようにつきあっていた大手会社の担当者達は殆ど定年退職していて生活がぎりぎりなので金がない、と接待した料亭やレストランで頭をかいた。
 
 今までいくつもの企画が最終段階まで行き、そのためにつぎ込んだ金は合計で膨大な額になったが、当てにしていた賛助者からは金が出ず、とにかくそれらを取り返さなければ飯田の生活自体が危うくなる。飯田は家と土地を抵当に金を借り、それらはすべて今一歩の企画のために消えていった。そして気が付いたら、限度額まで借りていたクレジットやサラ金の取り立てが厳しくなり、飯田は家を手放さざるを得なかった。
 
 とうに女房とは別れ、不安を紛らわせるために酒浸りになっていた飯田は、クレジット会社のブラックリストに載ったためにアパートも満足に借りられず、今更社会の底辺でしか見つからない仕事に就く気にもなれず、今まで惜しいところまで行った企画を書き記したノートを抱え、町をさまよった。
 
 濡素六商事営業二課部長になっていた竹下は、たまたま接待に向かう車から見た、ビルの壁に寄りかかるようにうずくまりながら自分を見上げたたホームレスがかつての自分の上司だとは夢にも思わなかった。



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