踏み倒し

 「またかよ・・・」
前方で手を挙げている人物を認め、飯田周三は舌打ちをした。もう三十年もこの界隈で個人タクシーをやっているベテランの周三には一目見ただけで分かるのだ。この時間、このあたりで流しのタクシーを拾おうというのはたいがい決まっている。普通の人間がこんな所にこんな時間に立っているわけはない。それに、今手を上げてこっちを見ているその中年の女もよく見ると脚のあたりが暗くてよく見えない。車のライトが当たっているはずなのだ。

 周三は気づかない振りをしてそのまま通り過ぎようとしたが、いつものようにその中年の女の前に車がさしかかるとブレーキがかかったように停車し、そして周三が何もしないのにドアが開いた。やはり不安が的中した。
「くそっ、何で稼ぎの悪いときこんな事になっちまうんだ」
周三が悪態をついているのもかまわず、その女は車に乗り込んできた。またドアが閉まり、車が動き出した。もうこれは周三の意志とは無関係なのだ。逆らってもしょうがない。
「お客さん、どこの病院まで?」
「あら、私が病院へ行くって、良くおわかりになりましたのね」
「もう何度もやってますからね、分かるんですよ。なるべく近くの病院が良いんですがね、どうです、斧露戸総合病院ならここから五分で行けますよ」
「私が行きたいのは、濡素六病院です。行ってくださいな」
「ええっ、濡素六病院って、ここから一時間はかかりますよ。駅までお送りしますから電車で行ってくださいよ」
「今の時間、電車はもうありません。だからお願いしているんじゃありませんか」
「でもお金をもらえないんじゃしょうがない」
「お金ならお払いいたします。今持ち合わせがないんですけれど、病院には家族がおりますので払うように言います」
「皆さんそうおっしゃるんですがねぇ・・」

 飯田はぶつくさ言いながら車を走らせた。とにかくこの客を送り届けないことには次の客を乗せられないのだ。
「ねえ、運転手さん」
後ろから声をかけられ、飯田はルームミラーを見た。女がまっすぐに飯田を見ていた。胴長短足どて腹で、タレ目団子鼻鰐口の女だった。
「病院に着いたらとにかく私をおろしてください。申し上げたように、お金の持ち合わせがないんです。ですから、病院の中に入って家人にお金を払うように言いますので」
(みんなそう言うんだよなぁ。でも、いつまで経っても出てこないんだ。中で聞いてみるとそれはたった今亡くなった何某です、ってな事で、結局金はもらえない)飯田は、そんなことを考えながら返事をしなかった。
「疑ってらっしゃるんですか?私の母が危篤で、とりあえず家を飛び出してしまって、お金を持ってくるのを忘れたんです。必ずお払いしますから・・」
「分かりましたよ。とにかく病院に着いたら降りていただきます。私は外で待っていますから」

 やっと濡素六病院に着き、佐野茂代は飯田の車を降り、病院の中に入った。急いでしばらく前から入院していた母親の部屋にゆくと、父の竹下陽介と兄妹達がすでに集まっていた。
「あ、茂代、容態が急に変わったんだ。連絡を受けて俺達も今来たところだ」
「お父さん、私、出てくるときにお金を持ってくるのを忘れたのよ。外にタクシーを待たせてあるから、お金を払ってくれない?」
「そうか、じゃあ、俺も行こう。母さんは少し持ち直したようだからちょっと外の空気を吸いたい」

 佐野茂代は父親の陽介と一緒に病院の玄関に来た。そして停まっていたタクシーの中をのぞき込んだ。誰もいなかった。その代わり、運転席におびただしい血だまりがあるのを見、思わず悲鳴を上げた。
 
 警察の捜索の結果、飯田の遺体は佐野茂代が乗った場所の近くにあった。おそらく強盗に襲われ、車内で殺されて外に引きずり出されたものだと警察は断定した。その話を聞いて、佐野茂代は思った。殺された周三の霊がとにかく病院で治療を受けようと自分に憑いた形でここまでやってきたに違いないと。
 
 
 


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