マクスウェルの悪魔



 飯田周三が会社から帰ってきて、いつものようにコンビニ弁当を食いながら缶ビールを飲もうと、ながしに出しっぱなしにした汚れたコップを水で濯いでいた。と、何かながしの下でごそごそしているものがあるのに気がついた。古い安アパートで、ろくに掃除もしていないのでたくさんのゴキブリや時にネズミまで出る。周三はあまり気にしない方だが、それでも引き出しを開けたりながしの下を開けたりするたびに大量のゴキブリがはい回るのはいくら周三でも楽しいわけではない。
 
 だが、いつものゴキブリとは感じが違う。何だろうと、周三はながしの下の扉を開けてみた。すると、いつしかけたか忘れたくらい古いゴキブリホイホイがあっちこっちに動き回っている。そして黒いしっぽのようなものが端から出てしきりに動いているのだ。
 
 ネズミか、と思ったが、どうも良く見るとしっぽの先に三角形の槍の穂先のようなものがついていて、ネズミのしっぽではない。普通の人間ならそれだけでも気分が悪くなって、新聞紙でも持ってきて包んで棄てるなどするのだろうが、汚いことに慣れっこになっている周三は、そのゴキブリホイホイを持ち上げてみた。ずしりと重く、持ち上げられて中のそいつはなおばたばたと暴れた。隙間から覗いて、ネズミではないことは確かめた。むろんゴキブリではない。
 
 周三は、とにかくコップを濯いでから卓袱台に置き、缶ビールの中身を注いで弁当を開いた。どうせ、なんだか知らないが、あとで空いたコンビニ袋にでもつっこんで、ゴミとして出してしまえばそれで終わりだ。弁当を一口食べ、それからコップに注いだビールを一口グビリとのんで、思わず、うめぇ、とつぶやいた周三の耳に、何か声が聞こえた。
 
 「頼むからここから出してくれ。窮屈でかなわない」
周三は思わずきょろきょろ見回したが、テレビは先日から壊れていて音が出ないし、一人暮らしでこの部屋には他の人間は居ない。空耳だと思い直し、口に含んだビールを飲み込んだ。
「無視しないでくれ。助けてくれよ」
今度ははっきりと聞こえる。
「え、誰だ。どこにいる」
「ここだ。お前がさっきここに引っ張り出したろう」
気がつくと、さっき周三がながしの下から取り出して新聞紙の上に置いたゴキブリホイホイが声に合わせてごそごそ動いている。
「なんだ?」

 周三は立ち上がり、側に行って良く眺めた。今度は小さな手のようなものが脇から出ていて、その指には水かきがついているが、明らかにネズミやゴキブリではない。周三は興味に駆られ、ゴキブリホイホイを手で破いた。中に、腹這いになった形で小さく真っ黒な人間のようなものが張り付いていた。ただし、手に水かきがあり、脚は山羊の脚のような蹄がついていて、長いしっぽがくねくね動いている。
「なんだ、お前は」
「悪魔だよ」


「ずいぶんみっともない悪魔だな。もっと大きいかと思っていたし、第一ゴキブリホイホイにつかまるなんて、悪魔らしくない」
「俺は普通の悪魔じゃない。マクスウェルの悪魔だ。エントロピーを司るのが仕事で、普通に言われている悪魔じゃないんだ。だから、エントロピー以外は何も出来ない。詳しくは、wikiを見てくれ」
「そうだろうな。悪魔の力があるなら、そんなざまにはならないだろう」

 元々無能だが親切でどこか優しい周三は、ばたばた暴れている悪魔を助けてやった。
「ありがたい。あんたは命の恩人だよ。改めて自己紹介させてくれ。俺は、マクスウェルの悪魔、松木和男だ。何か恩返しをさせてくれ」
「だって、お前、エントロピーとか何とか以外何も出来ないんだろう?御返しったって」
「あんたが俺のことを信ずるなら、金持ちにしてやるよ。俺が仕事をきちんとすれば良いんだけれど、昔から物理学者共がよってたかって、俺を否定するもんだから仕事をすることが出来なくて、とうとうこんなざまになってしまった。あんたが、俺のことを信じてくれるなら、仕事が出来る。大丈夫だ」

 周三はもともと勉強嫌いで学校でもろくに勉強をしていなかったからマクスウェルの悪魔のこともエントロピーのことも全く知らなかった。まして、昔からの物理学者達の仕打ちのことなど知るわけもなく、すなわち、松木和男悪魔の言葉を疑う理由がない。
 
 次の日、周三は松木悪魔の言うままに古いモーターと、発電機と電球などを買ってきた。そして、言われるままに両方シャフトと電線をつないだ。手でちょっとシャフトを回した途端にモーターが自然に回り出し、一緒に発電機も回りだし、そしてそれにつないだ電球が明々と点った。
「あれ、これは永久機関じゃないのか?いくら俺でもこれは無理だと言うことくらい知っているよ」
「だから、俺が仕事をすれば、無理じゃないんだ。なのに、物理学者共が俺に仕事をさせなかったから、永久機関が成り立たなかったのさ。あんたが俺を信じてくれるかぎり、あんたは好きなだけ永久機関を作って売り出すことが出来るよ。いくら俺が仕事をすると言っても、絶対に奴らは俺の存在を認めなかったからなぁ」
松木マクスウェルの悪魔は悔しそうに言ったが、周三は聞いていなかった。永久機関を作ればいくら高くても売れるし、大もうけが出来るからだ。

 三年後、周三の飯田周三製作所は大発展をして、様々な種類の永久機関を売り出し、周三は大もうけをした。今では副社長に収まっている松木マクスウェルの悪魔は、すっかり貫禄が付き、毎晩周三とビールを飲み交わしている。 

by ロクスケ










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