猫茶碗               ロクスケ

 世の中少しは景気が良くなったと最近言われているが、その恩恵を被ることが出来るのは一部の企業であり、飯田周三が勤めているような小さな会社はそんな楽観は出来ない。結局、普段から無能で無責任で無気力な飯田がリストラされた。やむなく周三は失業保険で食いつなぎながら仕事を探していたが、何処の会社でも使い物にならない周三を雇ってくれるはずもなく、結局住んでいたボロ借家も追い出されることになった。
 
 周三は飼い猫の佐野茂代に思わず愚痴をこぼした。
「なぁ、茂代。いよいよ俺も駄目だ。探したけれど仕事が見つからない。とうとう、この家からも出なければならなくなった。おまえ、どうする?引っ越す先がペット禁止だったり、最悪の場合、俺はホームレスになっちまう」

 茂代は周三の愚痴はいつもは適当に聞き流しているのだが、確かに今度ばかりは周三の親の代にもらわれてきて以来住んでいるこの家から出なければならないことを深刻に受け止めた。
「あたしはもう猫としてはかなりの年で十六歳だよ。人間で言えば七十歳くらいだろうねぇ。もう野良猫として生きていけるはずがないだろう。あんた、あたしをどうするつもりだい」
「つもりだい、っていわれても、俺にもどうして良いか分からないよ。俺自身が食っていけなくなるかも知れないんだ」
途端に茂代は頬杖をついて寝そべっている周三の横っ面に猫パンチを入れた。

 「痛てて」
「いててじゃないよ、周三。本当にあんたは愚図なんだから。あんたのおとっつぁんもおっかさんも、くれぐれも周三のことを宜しく頼むって、あたしに言ってたんだよ」
「宜しく頼むったって、実際お前が俺に何をしてくれるんだ。もうよぼよぼの婆さんじゃないか」
茂代はため息をつき、まだ寝そべったままの周三の顔の前に座った。かすかに尻尾が上下に動いている。これは茂代が怒っている事を示している。
「あんた、いくつだい、周三」
「四十三だよ」
「四十三にもなって、嫁の来手も居ない。話し相手と言えばあたしだけじゃないか。あんたがクビになるのも、あんたのせいだよ。普段から怠けることばかり考えて」
「しょうがねぇだろ。持って生まれた性格だもん」

 茂代はつくづくあきれ果てたという事を示すために、少し鼻にしわを寄せ、ヒゲをぴくつかせそれからごろりと横になった。尻尾は少し大きくぱたぱた動いている。
「しょうがないねぇ、周三。あんたのおっかさんが死ぬ時、あたしを膝に乗せてしみじみと言ったんだ。『あの子は馬鹿だけれど悪い奴じゃない。自分の育て方が悪かったんだろうねぇ。お父さんも死ぬまで心配していたけれどわたしも心配でこのままじゃ死に切れない』ってさ」
「ほんとかよ、俺には親父もお袋も何も言わなかった。しょうがねぇよ、あの二人の息子だもんなぁ、俺。偉くなれる訳じゃないし・・・いてて」

 思いっきり尻尾で周三の鼻っ面をひっぱたいてから、茂代は座り直した。
「本当にお前ってものはしょうのない馬鹿だねぇ。おっかさんが泣いていたのも無理はないねぇ。とは言ってもあんたが実際にここを出ることになるんならあたしだってどうなるか分からない。ちょっとお待ち」

 茂代は台所へ行き隅から自分がいつも食事をしている茶碗をくわえてきた。それを周三の顔の前に置き、また座り直して周三の顔をまっすぐ見た。
「大事な話があるんだ。ちゃんと座りなさい、周三」
茂代は真剣なのだと示すためにヒゲをピンと張り、耳をきちんと揃えて前に向けた。周三は思わず起き直り正座した。

 「良いかい、周三。よくお聞き。この茶碗は、あんたのおとっつぁんから預かった品だ。古伊万里の名品だよ。箱もちゃんとある。おとっつぁんが、もしも周三がどうにもならなくなったらこれをあいつに渡してやってくれ、って言ってたんだよ」
「こんな汚い猫茶碗、なんだってんだ」
「古伊万里だって言ったじゃないか。箱書きなんかどうせあんたには読めないんだろうけれどね。一応あたしが綺麗に舐めておいたから、あんたがきちんと磨いて、箱に収めて、好事家の所に持っていけば五百万円にはなる品だよ。どういう品かはあたしが聞いているから良く憶えて行って、絶対に安売りするんじゃないよ」
「そんな高い品物を親父はなんだって又、お前の猫茶碗なんかにしたんだろう」
「あんたに由来を教えて渡したら、どうせ仕事もしないでのらくらするために売っちゃうだろ。由来を教えなければ、すぐ無くするに決まってるんだ。だから、あたしに預けたんだよ。さ、売っておいで」

 周三は半信半疑だったが、茂代が教えてくれた場所から箱を出して、きれいに磨いたその茶碗を入れ、やはり茂代が教えてくれた近所のご隠居のところに持ち込んだ。むろん、茂代が細かく教えてくれたその茶碗の由来を説明し、茂代の言うとおり五百万円で売ることが出来た。
 
 「凄いなぁ、茂代。本当に売れたよ。あの茶碗みたいなものもう預かってないか?」
 茂代は大好物の卵焼きを食べ、十分に満足して座布団の上に寝そべり、前脚で顔を掃除しながら喉を鳴らしていた。心から満足している時の茂代だった。
「さすがに濡素六屋の卵焼きは違うねぇ。また買ってきておくれ。あ、又あの茶碗の口探しておくよ。あれは十年くらい前にあたしが古い空き家から探してきたガラクタだ。今度は掛け軸でも有れば良いんだけれど、持ってくるのが一苦労だ」
「ええっ?古伊万里の名品じゃなかったのか」

 顔を洗い終えた茂代は小さくゲップをしながら長々と寝そべった。大分眠くなっている。
「違うよ。ただのガラクタさ。でも、あたしがもっともらしく言ったらあんた信じたろう。あんたが信じたから、あの爺さんも信じたのさ。十年間あたしが使って、それなりの味も出ていたしね。なんかまた探しとくよ。おやすみ」



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