ネコツグラ


ネコツグラ          平成18年08月30日

 三十歳の飯田周三が猫の佐野茂代を会社帰りに拾ったのは会社勤めを始め丁度その年だったから、もう八年前のことだ。拾った時は茂代はおそらく生後三ヶ月位だったから、それでも今は八歳になる。猫としてはもう熟女と言って良い。子猫を生ませても始末に困るので、生後一年と思われるころ、避妊手術を施したので、佐野茂代には雄猫の気もなく飼い主の飯田周三と同じだった。
 
 生っちろく胴長短足のデブで、みっともない童顔に太い黒ブチのメガネの飯田周三が三流大学を出てやっと入社できた濡素六商事はほんの小さな会社だったが、たまたま、周三が入社した頃は景気も良く周三も一安心していた。そのころは忙しく働いていたが、もともと無能だったので大した働きも出来ていなかった。
 
 とにかく、そのころ遅く会社から帰ってきて途中で軽くいっぱいやっていた為もあって、シャッターの閉まったある店の薄暗い軒下に段ボール箱に入ってごそごそ動いていた茂代を拾ったのだ。もうすっかり弱っていて、鳴く力もなかったようだ。箱の大きさからおそらく二,三匹入れられていたのだろうが佐野茂代だけが最後まで残ったのだろう。確かに胴長短足どて腹で、タレ目団子鼻鰐口で余り可愛くはなかったが、もともと気が優しく猫好きの周三はその佐野茂代を抱いてアパートに戻った。
 
 取り敢えず牛乳を与え、夢中で飲んでいる佐野茂代のために寝床を準備してやった。猫の餌は用意していなかったが、たまたま在った鮭缶を開けてやった。佐野茂代はむさぼるように食べた。よほど腹が空いていたらしい。
 
 次の日には、佐野茂代はすっかり元気になり部屋中の中を走り回り、そして周三にじゃれた。そうなると、やはり子猫だから可愛い。猫好きの飯田周三は時の経つのも忘れて佐野茂代と遊んだ。段ボールの寝床では可哀想だと思い、ペットショップでネコツグラをかってやった。名人が藁で作ったしっかりした本格的なネコツグラで、相当高かったが、可愛い佐野茂代のために奮発したのだ。佐野茂代もすっかり気に入り、昼間は大抵そのネコツグラの中にいた。夜は周三の布団の中で寝た。それが八年間続いていた。
 
 一時は景気の良かった濡素六商事がたちまち業績悪化で経営が傾き、無能だった周三がリストラにあったのは一年前だった。ろくに退職金もなく、貯金もしていなかった周三は当面失業保険で何とかやっていたが、新しい仕事も見つからなく、どうしようもなくなって金を借りた。借金は雪だるま式にふくれあがり、怪しげな所からも金を借りるようになった周三のところには毎日大勢の借金取りが来るようになった。
 
 借金取りが頻繁に来るし、ドアに、金返せ、泥棒などと書いたビラを貼られるようになったので、周三はアパートに帰ることが出来なくなった。しかし、アパートには佐野茂代が居る。佐野茂代を放っておく訳にはいかず、結局飯田周三はネコツグラに佐野茂代を入れたまま持ち出した。

 「なあ、茂代、これで俺たちは宿無しだなぁ。下手にアパートに帰ったら俺、半殺しにされちまうよ」
「まあ、そう気を落としちゃいけないよ。とにかくお入り」
佐野茂代は優しく周三を慰め、周三が公園の茂みにおいたネコツグラの中に請じ入れた。周三が茂代のネコツグラの中に入ったのはそれが初めてだった。
「ああ、そうだな。ありがとう、茂代。なんか方法を考えてみよう」
今までビクビクしていた周三は、ネコツグラの中で久しぶりにくつろいだ。そんな周三に、茂代は座布団を勧め、茶と茶菓子を出し、しんみりと言った。
「あんた、会社勤めが性に合っていないんだよ。ここでのんびりとお暮らし。あんた一人位なら、あたしが養ってあげるよ。なんて言ったって、あんたはあたしを拾って育ててくれたんだ。あんたのこと、世間が見捨ててもあたしは見捨てたりなんかしないよ」
「ありがとう、茂代。お前のその言葉、どれだけ勇気づけられることか。よし、俺、がんばるよ」

 人生を諦めかけていた周三は、気を取り直し、あちらこちらを探し回って運良く公園の管理や掃除をする職を得ることが出来た。周三は毎日茂みの中にあるネコツグラから佐野茂代に見送られて仕事に出るようになった。