叔父さん

(これは私の小説サイトにUPした作品です)


 周三叔父さんが死んだのは、警察の話では二ヶ月ほど前のことだったらしい。アパートの大家さんがいつまで経っても家賃を持ってこないので催促に来て、いつ来ても留守なので合い鍵で部屋に入り、そして叔父さんが死んでいるのを見つけたという。大家さんは幸い、と言っていたけれど、とにかく寒い最中のことで、それに叔父さんが元々がりがりに痩せていたことから腐敗するよりもむしろミイラになっていたから匂いがしなかったのだ、と言っていたとか。
 
 一人で死んだから誰も気が付かず、それに叔父さんは普段からあまり外に出なくて、姿を見かけなくても誰も気にしなかったと言う。それよりもなによりも、叔父さんは誰ともつきあいが無くて、だから誰も普段から叔父さんのことなど気にしなかったのだ。周三叔父さんは割合近くに住んでいたのだけれど、僕は殆どあったことがない。叔父さんのことをお父さんもお母さんも口にしたことはないし、親戚の誰も、周三叔父さんのことは相手にしていなかったのだそうだ。
 
 叔父さんは汚いアパートで一人暮らしをしていて、時々アルバイトをして居たらしい。前は何度もお母さんのところに来てお金を借りていったけれど、きちんと働きなさいとお母さんもお父さんも何度も言ったのに、にたにたと笑ってばかり居て、全然働かないのだそうだ。お母さんの三つ下の弟で三十八歳だった。子供の頃は仲の良い姉弟だったっとお母さんは言っている。お母さんは七人姉弟の五番目で、叔父さんは一番下で、兄弟の中でもかわいがられていたし、おじいちゃんやおばあちゃんもかわいがっていたけれど、それが甘やかすことになった、とお母さんは言っている。
 
 お母さんばかりじゃなく他の伯父さん伯母さん達の所へもお金を借りに行き、そのたびにみんなお金を貸していたのだけれど、それではきりがないとみんなで叔父さんにお金を貸すのを止めたのだそうだ。親戚がみんな集まってそう決めたのだという。
 
 僕は叔父さんを直接見た記憶がないけれど、小さな頃お金を借りに来た叔父さんを見たことがあるはずだとお母さんが言っていた。アルバムには高校時代くらいまでの叔父さんの写真がある。そのころは他の姉弟達とも一緒に写った写真があって、普通の人に見える。ちょっと背が低くて太っていて、まるで中学生みたいな顔で、太い黒縁の眼鏡をかけてにこにこ笑っている写真が多い。
 
 みんながお金を貸さなくなってから、叔父さんはアルバイトをしたり他の人からお金を借りたり、サラ金から借りたりしていたけれど、最後には誰からもお金を借りられなくなって、アパートからも追い出されかけていたらしい。
 
 とにかく、死んだのだから誰かが死体を引き取ってお葬式などをしなければならないとは、とお父さんは言っていたけれど、さすがにお母さんは黙って涙を流していた。警察ので、おそらく叔父さんは餓死したらしいと聞いた時初めて泣いたとお父さんが言っていた。昔子供の頃年が近くて仲良く遊んでいた時のことを思い出したのだろう。いくら親戚みんなで決めたことでも、冷たくしすぎた、とお母さんは泣いたのだそうだ。
 
 結局、一番近くに住んでいた家のお父さんとお母さんが、親戚からお金を集めていろいろやることになった。叔父さんの財産処分にしても、アパートには本当に何もなく、ただ、大きな段ボールいっぱいに原稿用紙に書いた小説が詰まっていたという。着る物もボロばかりで、これでは外にもろくに出られなかったろうと言うし、壊れた冷蔵庫の中にはひからびたパンとか腐ったコンビニのおかずなんかが入っていて、叔父さんはがりがりに痩せていたそうだ。こんなになるまでひどい生活をしていたとは思わなかった、とお母さんは言っていたけれど、それは他の姉弟も同じだよ、とお父さんに言われていた。
 
 そう言えば、お父さんは周三叔父さんと殆どつきあったことがない。結婚式の時は来たけれど、あとはいつもお父さんがいない時に叔父さんがお金を借りに来ていたというし、お父さんはそれを聞いていやな顔をしていたから、お母さんはますます叔父さんと会うの事もしなかった。
 
 結局、叔父さんの葬式と言っても、お寺でお経を読んでもらっただけで、お骨は未だに家にある。おじいちゃん達のお墓に一緒に入れようかとの話が出たけれど、結局それもしないことになって、どうするか決まるまで家で預かることにした。そんなだから、お葬式にも親戚の二,三人が来ただけで、あとはお寺から帰ってきたみんなが家でお酒を飲んだり食べたりしただけだ。僕はとうとう叔父さんの顔を見ないままだったが、お葬式の時、叔父さんのアパートから出てきた最近の写真を修整した物を見た。三十八歳にしては本当に随分若く見えるし、それに相変わらず太っていた。黒い太縁眼鏡も、高校時代の写真と同じだ。それが、実際の叔父さんは本当に別人のようにやせ細っていたのだという。写真とは似てもにつかない顔だったとお父さんが言っていた。ただ、死んでから二ヶ月も経ってミイラになった顔だから、お父さんもお母さんもまともには見ていない。
 
 叔父さんの葬式が済んだのは、叔父さんが見つけられてから一月もあとのことだったけれど、そのあとはみんなが前以上に叔父さんのことを言わなくなった。そのころ、濡素六出版の松木和男という人から電話が来て、亡くなった飯田周三さんの作品の出版についてお話をしたいけれど、相続人が竹下陽子さんだとうかがって電話をしましたと言ったのだ。その時僕も家にいたから良く覚えている。
 
 「はい、竹下陽子はわたしです。飯田周三はわたしの弟ですが、遺産と言うほどの物もなくて、一応わたしが全部引き継ぐと言うことにはなったんですが、出版って・・」
「いえ、飯田さんからお預かりしていた原稿が社内で出版企画に乗りましてね、なにより、飯田さんの作品が斧露戸文学賞をお取りになった事が大きな契機になったのに、いきなりご連絡がとれなくなりまして。驚きました、お亡くなりになっていたんですねぇ」
「出版って、わたし何も聞いてませんでした」
「飯田さん、自分はもう親戚から縁を切られているので、何も言っていない。とにかく、自分には小説しかないので、必死になって書いている。もう百作は越えているけれど、これが認められたらと、その夢ばかり追いかけている、と言ってました」
「そうですか・・・ちっとも知らなくて」
「とにかく斧露戸文学賞の賞金、一千万円はすぐに受け取りに行かれた方が良いですよ。それと、私たちに出版をさせていただければ、原稿料として三千万円は提示させていただきたいし、もし他の作品をお持ちでしたら、改めて出版についてお話をさせていただきたく思います」

 叔父さんのアパートから持ってきたまま物置につっこまれていたあの段ボール箱の中身を、そのあとで家に来た松木さんが持っていった。少なく見ても数億円の価値があるという。
 
 改めて、親戚が集まってきてお葬式が行われた。家の親戚がこんなにたくさんいるは知らなかったし、叔父さんの友人知人という人が何百人も来た。お母さんは、テレビ局のインタビューで、私は周三の才能を信じていて、いつか花開くと思っていました、と言っていた。



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