弟僕には二卵性双生児の弟、数馬がいる。数馬は、僕といっしょに育っていったのだが、生まれた時に酸素不足があったためか、ひどく凶暴だった。 僕が覚えている限りでは、3歳のころにはもう数馬は手のつけられない子供だった。すぐに怒り出す、一つのことをやり終えられないなど、僕もずいぶんと物を投げられたり突き飛ばされて怪我をした。双子だったから、ふたりで遊ぶことが多かったのだが、そのぶん僕は数馬に付き合いなれていて、小学校に上がるころには、数馬を怒らせることはもうなかった。だからか、母は数馬に問題があるとは思っていなかった。それが、そもそもの間違いのはじまりだった。 だが、数馬は、幼稚園では問題児だった。暴れる、暴言を吐く、殴る、蹴る、物を投げる、他の園児に怪我をさせることなど、数え切れないほどあった。また、多動でひとときもじっとしていられなかった。幼稚園では、担任を含め園長からも何度となく呼び出されて、そのたびに、母は悪いのは数馬ではなくて園の教育の仕方だとか教師が悪いと自信満々で取り合わなかった。最終的に、幼稚園をやめることが母の選択だった。僕と数馬は3回幼稚園を変わった。いずれも私立の裕福な子供がいく幼稚園だった。 ちなみに、僕の父はものすごく勤勉な男である。母は、勤勉なために父がろくろく帰ってないのだと思っていた。確かに、裕福な暮らしを保障してくれていたが、父に会うことはめったになかった。父はいつも忙しいと電話で話していて、父の経営する有名ブランド店の本店のビルに部屋をもっていて、ほとんど帰ってくることはなかった。たまに、父の会社の主催で開くファッションショーに出かけては、父に会うぐらいだった。 そういう意味で母は孤独だったかもしれない。母は厚化粧をしていることが多くて、僕はそれが好きではなかったけれども、家にいて、化粧をしていない時は、きれいな人だった。でも「世の中はお金よ。」と言ってはばからない人だったから、友達さえもろくろくいなかったと記憶している。募金なんかも決してしなかった。母の母は、僕にとって祖母に当たる人になるが、若いころに亡くなっている。母は風を切って歩いていくしかなかったのかもしれない。心を許せる人などいなかった。母は、少しだけ、父の店の一つを手伝っていた。それで、役員報酬を多大に受け取り、かつ、家計費として有り余るお金を父の口座から毎月振り込まれていた。 数馬と僕は、そうこうしているうちに小学校に上がる年齢になった。僕は私立に受かったのだが、数馬が落ちてしまった。母は考えた挙句、隣の市の小学校に僕たちを入学させた。僕たちは、少し遠かったが二人で歩いて通った。一年生のころのことは、よく覚えている。数馬はなかなか字が書けなかった。ひらがなで、つまずいていた。みんながカタカナに移ったころにもまだ、ひらがなで苦戦していた。そして、いつものようにうまくいかないことで、数馬はひどく神経質になっていた。ちょっとのことで、すぐ怒った。僕たちは双子だから、同じクラスにはならなかったが、隣の教室で騒いでいるのは良く聞こえた。始めのころは、かんしゃくを起こしてパニックになるということが続いた。あるいは、同じクラスの子供に喧嘩をふっかけては、取っ組み合いの喧嘩になった。まだ、小学生一年生だったから、女の先生に引き離されて収集はついたのだが。 むろん、母は呼び出されたが、相変わらず「教師が悪い」の一点張りだった。そして、母は数馬に勉強ができないことをののしった挙句、数馬のできない部分を家庭教師で補おうとした。しかし、長く持つ家庭教師などいなかった。そこで、個人指導の塾に僕たちは通わされた。数馬は、不思議と字を覚えると、成績も落ち着いた。ただ、文章を読むことが嫌いだった。算数の文章題は全滅だった。 ところが、三年生にもなると数馬は体も大きく成長して、椅子や机を投げるに至った。初め、そのことを聞いた僕は愕然とした。母はもちろん呼び出されたが、決して非を認めることなく、怪我をさせた相手方に対しても、相手が悪いから、と言いはなって、謝りにも行かなかった。 そうしたことは、何度も何度も繰り返された。四年生の時は、体が大きくて俊敏なクラスメートがいて、数馬が挑発して喧嘩になってにらみ合いになると、その子がクラスメートから呼ばれて、間に入るようになった。僕も見たことがある。じりじりとにらみ合っているうちは、その子は決して手を出さなかったが、いざ取っ組み合いになろうという時に、数馬をふさいで動けないように力でねじ伏せ、他のクラスメートがもう一方の子供に5~6人で遮った。その間に、職員室から先生が呼ばれてくるのである。確か、そのときの担任は女の先生だった。線のほそい力のなさそうな先生だった。だから、たいてい男の先生がいっしょに来た。 数馬は、クラスメートだけでなく、下級生にも手を出した。殴ったり、蹴ったりした。言葉での挑発は少なかったかもしれない。いきなり切れる、という感じだった。僕は双子だったせいか、数馬がなんで切れるのかなんとなくわかった。でも、僕は切れなかった。たいしたことではなかったからだ。数馬はそのたいしたことでない問題にもいちいち目くじらを立てなくては気がすまなかった。 そして、興奮は時間とともに消失した。興奮が冷めると、数馬にも現実が待っていた。悪かったと思う反面、なんで俺だけが叱られるんだ、という反発があって、心から反省はできなかった。母もそうだった。なんでうちの子だけが悪いのよ、と先生にくってかかった。「あなたの教育に問題があるのではないですか?」と母は言った。そして、母は僕に数馬の味方になるよう何度も何度も言うのだった。 僕は、数馬の行いを見ていて、味方になるのは大変辛いことだった。しかし、母の願いを受け入れて、なるべく「数馬は悪くない」と弁護してやった。そうすると、僕から離れていく友達も出てきた。数馬は悪い。そう、数馬の行いは悪かった。だが、当時の僕にはそれがなぜなのか、解決策はなんなのか、僕がどうすれば数馬が良くなるのか全くわからなかった。兎に角、数馬には自分が必要なのだと言い聞かせて、なるべく数馬と行動をともにした。僕は数馬になぜあんなに暴れるんだと聞かなかった。僕までが数馬を追い詰めたら、数馬の味方はいなくなってしまう、と僕は思っていた。母は、数馬の味方ではなかった。ただ、体裁を繕いたい一心で反論しているようにしか見えなかった。その証拠に、数馬を追い詰める言葉をずいぶんと数馬に吐いた。しかし、母はまるでスパルタの王のように、君臨し、僕たちのことを思いやるという大義名分で僕たちを支配していた。 四年生の終わりだった。数馬の担任が個別面談で、母に「親子でカウンセリングを受けられたらどうでしょうか。」と言った。数馬の担任は「母にも問題があると言った」と母は受け取った。母は激怒した。しかし、担任のほうも切羽つまっていた。これ以上、物を投げたり、取っ組み合いの喧嘩をすれば、かならず大怪我が出ると思っていた。母は、校長のところに文句を言いに行った。「あの先生を解雇しろ」というようなことまで言ったと聞く。校長でらちが明かないと、教育委員会にも乗り込んでいった。だが、数々の報告を受けていた教育委員会では、自分の市の住民ならともかく、越境入学の問題児まで面倒を見るつもりはなかった。無論、そうはっきり言ったわけではないのだろう。母からの又聞きなので、怪しいところだが。今だったら「カウンセリング」というよりも「心理検査」を勧められる時代なのかもしれない。 ともかく、母はもうこの学校には子供を行かせない、と心に決めた。母の怒りはものすごかった。あたりかまわず、怒鳴り散らし、泣きわめき、しばらくは声もかけられなかった。母が何日か経て落ち着くと、自分の市の区域の学校に移る手続きをとった。僕たちはもちろんセットだった。そしてみんなにさよならも言わないで、転校して行った。 新しい学校は、前の学校よりも人数が多かった。僕と数馬は例によって別々のクラスになった。数馬は、初日に気に触ることがあったのか、いきなり新しいクラスメートを突き倒し、羽交い絞めにした。そして、なんとそのクラスメートをそのまま階段から突き落とし、腰の骨を折ってしまったのである。初日で、緊張していたので、余計行動が制御できなかったようだった。また、相手方も、数馬がそういうことをする人間だという認識がなかったので、あっという間の出来事だったと言える。むろん休み時間で、教師のいない場面での出来事だった。 母はすぐ呼び出された。さすがの母も、この事件には参ったようだった。いままでのように、まくし立てることもできなかった。今までの学校では、子供たちが未然に事故を防いでいたのだ。今考えても、子供というのは自分たちを守ることに対して、ものすごい力を持っているものだ。 母は、骨折した少年の家に謝罪に行った。それでも、母の中では、その少年がうちの子供に嫌がらせをしたのではないかという気持ちがまだあった。そんな気持ちが出てしまったのか、運悪く、相手方の父親は弁護士だったので、謝罪に持ってきたものをすべて拒否し、少年犯罪事件として告訴し、かつ損害賠償請求をすると宣告した。もちろん教育委員会も訴えられた。 母は驚いて、あわてて父の元に車で走った。父の職場の住処に呼び鈴も鳴らさないで入ると、そこには若い女性と裸でベッドに横たわっている夫がいた。そこから、もう母の記憶はない。母が気がついた時、母はもう病院の一室に、暴れる患者を防止するベルトを締められて点滴を何本かつけられて、導尿の管をつけられて動けない状態にいた。薬が効いて、頭がぼおっとしている。なんでここにいるのかわからない。 母は、その時、子供のことも忘れて父に女のことでまず噛み付いたのである。もうわけがわからない状態に陥っていて、暴れまくり、わめき散らし、物を投げて、泣いたのである。そして、わからないままにも、数馬が訴えられることもわめいて、失神したのだった。父は救急車を呼んだ。母は時々目を覚ましては暴れたので、精神科へ強制入院となった。 父は、僕に電話をしてきた。「何があったんだね?」と百戦錬磨の父は至って冷静だった。僕は今日あったできごとで、わかることをすべて父に話した。もちろん、母が相手方に告訴されると言われたことなどは知らなかったが、父はおおよそ事態を理解したようであった。父は、数馬の担任に電話を入れた。そして、相手方にまずは謝罪の電話をした。しかし、相手方は態度を軟化させなかった。その時点で、腰の骨折が片麻痺を起こす恐れがあることを相手方は心配していた。そこで、父は「では弁護士をこちらも立てますので、専門家同士で話してください。できるだけのことはしたいと思っています。」と電話を切った。 数馬は少年犯罪として起訴された。学校で起こった事件であるゆえに、いろいろと難しい問題があったが、相手方は全く数馬を攻撃するつもりはなく、普通に話しかけたということが明らかにされた。また、相手方の状況として、左半身不随となった。数馬はまず精神鑑定をすることになった。1週間ほどで、数馬の診断がおりた。「反社会性人格障害」。他人の権利を平然と無視・侵害する思考・行動様式が特徴であり、反社会的、犯罪的行為を反復し、こうした行動に関して良心の呵責を欠いている。衝動的で、自分や他人の安全を顧みない。発達過程において、年齢相応の社会的基準に沿って行動する能力を獲得し損ねたものと、定義される。 数馬の父の権力のおかげで、事件はマスコミに報道されることはなかった。 数馬は11歳である。しかし、今までの学校での事件のこともあり、そのまま釈放というわけにはいかなかった。 僕の母親は、「境界性人格障害」と診断された。当面入院することになった。このことにより、数馬は児童相談所から児童自立支援施設に送られ、僕は初めて数馬と離れて暮らすことになった。母が入院しているので、父はお手伝いさんを雇ってくれた。父も、責任の一端を感じているのか、2日に一度は帰ってくるようになった。父の母である僕の祖母もかけつけた。 何不自由ないような僕の暮らしだったが、数馬の障害があまりにもショッキングだった。僕のために、カウンセラーがつけられた。僕は、いままでのことを今更ながら思うのだった。数馬は確かに、普通の子供ではなかった。でも、母が頑として認めなかったのだ。もしかしたら、小さなころにはAD/HD(注意欠陥/多動障害)だったのかもしれない。それをほったらかしにしておいたから、このような結果を生んでしまったのではないか。しかし、母も病気だったのだ。また、父も家庭人として失格だったと僕は思う。金がいくらでもあって、損害賠償に答えられようが、家庭というものを放棄した責任は重い。 あれから何年たっただろうか。 今、僕は、教育者になるために、大学で勉強している。僕は特殊教育の免許も取ろうと思っている。数馬は、数年児童自立支援施設で過ごした後、精神病院へ移送された。成長するにつけて、リストカットからはじまって、自殺企図がなんどかあり、精神的な治療が必要になった。数馬にはその後、LD(学習障害)もあることがわかり、数馬がもっと小さなころからいろいろな援助が必要だったことが痛感される。数馬は今境界性人格障害だと医者に言われている。治療が難しいものらしい。もっと前に治療をはじめていれば、こんなことにはならなかったのだろう。激しい衝動性はいまだに見られる。それなのに、自己評価がひどく低いのだ。ちぐはぐな性格を自分でも持て余しているのだろうか。頭は悪くないのだ、さぞ辛いだろうと僕は思う。だが、具合のいい時は半年も家に帰ってくることもある。数馬の将来を考えるのは、僕一人ではむずかしすぎるから、病院の医療ソーシャルワーカーや、カウンセラーなどと、考えていこうと思っている。数馬は将来のことを考えると悲観的になるので、まだ数馬には何も聞けない。 母のほうは薬を飲みながらも、自宅で暮らしている。父とは別れた。だが、もちろん仕送りがあり、僕も父とは時々会っている。初め、父は僕を後継者にしたいからと僕だけの引取りを要請してきた。だが、僕は僕の意思で断った。やはり、僕らを見捨てたのは父であったからだ。 また、そうしたことなどで、父が数馬を捨て僕だけ拾おうとしたことが、あるいは、なんだかんだ言っても、母が数馬でなく僕に頼ろうとしたことが、数馬には精神的にショックだったらしく、それは確実に数馬の心を蝕んだ。そして、その傷はいつになっても癒えることがなかった。心的外傷というのだろうか。数馬は自分自身で、自虐的な行為をすることで自分を苦しめた。僕も苦しかった。多分父母も苦しかったに違いない。 母は薬のせいか、前のように精悍な感じはなく、口も滑らかに動かない。でも、前よりずっとやさしくなった。数馬のことを後悔して時々泣いているようだ。僕たちに君臨していた王はもはや王でなくなった。しかし薬が切れたときだろうか、時々ものすごく威丈高になり、昔を思い出しては暴れ、母を病院へ連れて行くことがある。そんな時、嫌になる自分と母を哀れに思う自分が二人同居する。 数馬は、母からの遺伝的な障害らしかった。数馬のほうが、男だから暴力的に出てしまい、問題も大きかった。そして、小学校も高学年でわかった障害は、もう彼を普通の子供に戻すことができなかった。数馬は境界性人格障害となった今、治療が難しいそうだ。心的外傷や学習障害なども重複している。 僕の小学校の時、クラスにもAD/HDの男児がいた。机の上でピョンピョンと飛び跳ねては、大声を出して騒いだ。また、先生がちょっと目を離すとすぐにどこかへ行ってしまった。だが、その子供の母親は小さいころから子供の障害に気がついていた。後で聞いた話だが、幼稚園のころからソーシャルスキルトレーニングの教室に通っていたと言う。また、できることを伸ばす教育をしていたのだと聞く。そのせいか、今、会っても普通の子供となんら変わらない。数馬のように自信がないわけでなく、自信のある才能を伸ばして、今美術の大学に通っているとのことだ。僕は、母を責めるわけではないが、やはり人には気がつくべき人というのは要るんだと思う。数馬だって、もっと早くわかっていれば、こんなに精神を病んだりしなかっただろう。 僕は、未来の子供の「気づくべき人」になろうと思っている。父母に代わって弟のためにも。 完
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