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小説 それぞれの人生
 「おい、松本、シカトするなよ、松本」
肩を叩かれ、井田修司は振り返った。最前から誰かが誰かを呼んでいるのは知っていたが、自分の名前ではないので全く気にしていなかった。たまたま出張でこの町に来ているだけで、知りあいなど居ない。だから、肩を叩かれたときも、誰かと間違えられたのだろうと思ったのだ。

 「何だ、やっぱり松本じゃないか」
肩を叩いた男は井田修司と同年輩の五十台半ばだが、どう見てもまともとは思えない、まかり間違えば暴力事件でも起こしそうな粗野で粗暴な男だ。真面目に会社勤めをしている自分とは全く接点のない人間だ。
「誰かと間違えているんでしょう。私は松本という名前じゃないが」
「何言ってやがる。お前、松本だよ。松本和夫じゃねぇか。何か、ムショで五年も一緒にいた俺をしらねぇってか」
井田は驚いた。ムショというが、勿論井田は刑務所などに入ったことなど無い。この男が単に間違えているのでなければ、何か因縁でもつける気でいるのではないか。やっかいなことになりそうな嫌な予感がした。今まで井田修司の人生には暴力などは一切関わったことがない。妻の佐野茂代と二人暮らしだが、一人居た子供は既に独立している。国内中堅の濡素六産業にもう三十年以上勤め続け、争いなど無縁の生活を送っているから、暴力に対しては恐怖を感ずる。

 「バッカやろう、とぼける気か?ムショじゃ、あれだけ面倒を見てやったのに、たまに娑婆で出会ったらシカトか。おめぇ、今何やってるかしらねぇが、堅気みてぇな格好してよ、俺なんか口を利くのも嫌なのかよ」
昼間なのに、少し酔っているようだ。井田は相手を刺激しないように、そしておびえを覚られないように平静を装い穏やかに言った。
「本当にあなたにはあったことがありません。私は刑務所に入ったこともありませんし、そしてこの町も仕事で来ただけで、今日が初めてです。おそらく、その松本さんという人は私に似ているのかも知れませんが、あなたは人違いをしているんです」
「うるせぇや。てめぇが松本でなくて誰なんだ。えぇ?てめぇの左手の小指がねぇのはどういう訳だ」

 井田は、普段人に見られないように隠している左手を、ことさら隠した。が、相手はその手を掴み、根本から無くなっている小指の付け根を井田の顔の前に突き出した。この小指は子供の頃木から落ちたときに無くしたのだ。
「これは子供の頃事故で無くしただけですよ。とにかく離してください。急ぐんです。離してくれないと、大きな声を出しますよ」
「上等じゃぁねぇか。でかい声なら俺が出してやらぁ。ただ、見掛けたから声を掛けただけじゃねぇか。なんでぇ、まるで汚ねぇ物見るみたいに俺を見てよ、てめぇ、何様だってんだ」
相手が大きな声を出し、気が付くと遠巻きに何人かの通行人が立ち止まっている。なにしろ、昼間の町中なのだ。

 「おい、竹中。竹中行夫、何やってるんだ」
井田の後から誰かが声を掛け、竹中と呼ばれた男はつかんでいた井田の手を離した。井田は振り返り、自転車にまたがった警察官の姿を見た。誰かが通報したのか、あるいはたまたま通りかかったのか。とにかく、警察官を見て、井田はほっとした。
「あ、ご苦労様です。この人が私を他の人と間違えているんですが、そう言ってもきいてくれ・・・」
「ああ、松本じゃないか。いつ戻ってきたんだ。お前、いつも竹中とつるんでいたじゃないか」
「あなたまで何を言っているんですか。私は井田です。井田修司ですよ」
「何をとぼけているんだ。お前は松本和夫だ。良く知っているよ。竹中といっしょに何度も挙げられてるじゃないか。私も一、二回お前等を挙げに行った。間違えるはずがない」
「何を馬鹿な。身分証明書だってあるんだ」
「じゃあ、出してみな」

 井田は内ポケットから社員証を出して見せた。警察官はそれをちらっと見て、一言言った。
「お前、これをどこから持ってきた。顔が違うじゃないか。それに、井田だって?待てよ、この写真どこかで見たことがある。ちょっと来い」
それまで苦笑いをしていた警官が急に厳しい顔になって、井田の腕をつかむと、有無を言わせず、交番に引っ立てた。

 「あ、本署ですか?斧露戸交番の笹本であります。今、手配書で回ってきた殺人事件の被害者、井田修司の社員証や所持品を持っている男を逮捕いたしました。前科七犯の松本和夫です。本人は自分があの被害者の井田修司だと言い張っておりますが、被害者の顔写真とは全く別人で、自分が良く知っている松本和夫に間違い有りません」
井田、いや松本和夫は交番の中にある拘置室の中で笹本巡査の電話の声を呆然と聞いたいた。笹本に指摘されて改めて思い当たったのだが、女房子供が居ると思っていたのに、女房の顔も子供の顔も思い出せなかった。自分の家の住所は知っているが、具体的な場所が分からなかった。どんな家かも分からない。自分がどこの出身で、どんな育ち方をして、どんな学校に行っていたのか、勤めている濡素六産業で何をしていたのか、まったく思い出せない。しかし、何故自分が、笹本巡査の言う、東京で発見された行きずり強盗殺人事件の被害者の井田修司だと思いこんでいたのか、笹本が見せた書類の中の松本和夫という男の写真が自分の物である理由も分からなかった。

 松本が強盗殺人罪で死刑判決を受けたとき、精神鑑定をした医師の意見書では、松本和夫が日頃からそれまでの刑務所と外を行き来する人生と決別し、新しい人生を送りたいと熱望していたことから、たまたま自分が殺した相手の社員証を見た途端、自分がその被害者本人であると思いこんだ結果、それまでの松本の人生をすっかり忘れ、井田から奪った金でビジネスホテルを転々としながら、自分が出張中の井田修司であるとの妄想を抱くに至った、との事だった。

by ロクスケ


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