心  太


「あんた、心太が冷えてるよ。暖まらないうちにお食べよ」 仕事場で仕事をしていた飯田周三は、女房の佐野茂代の声に頭を上げた。飾り職 人だから火を使うので、いくら表戸や部屋の障子、そして裏口まで開け放ってい てもかなり暑い。頻繁に傍らに置いた大徳利から水を飲んでいても全身ぐしょぐ しょに汗をかく。周三は火床の炭を消し壺に入れ、残り火に灰をかけて立ち上 がった。

茂代が声をかけたのも、もう昼時分で仕事じまいをしてもよい頃だからだ。昼 八つの鐘が聞こえてきたから、周三も一区切りするつもりだったのだ。これから 軽い昼飯を食って、湯へ行ってくる。これが毎日の習慣だ。

「そうか、心太か。よく冷やしたか」 「ああ、朝のうちに買ってきて、井戸に入れて置いたんだ。よく冷えているよ。 あんた、井戸に行ったら持ってきておくれ。いつものサラシ袋に入れてあるから」
「うん、それはありがたい。それにしてもうちの長屋の井戸は他の井戸と違って わき水だから、キュウリでも豆腐でも冷えるのがありがたい」
そう言いながら、周三は路地の奥にある井戸に手ぬぐいをぶら下げて行った。こ の長屋の井戸は所々にあるわき水の井戸で、水は真夏でも冷たく、真冬でも暖か い。江戸の中心部では井の頭から引いてきた上水道の水を使っているので、こう は冷たくない。

井戸で体を拭いてから、周三は脇にある大桶の中の、茂代がいつも使っている サラシの袋を取り上げた。この袋は心太や細かい野菜などを冷やすときに使うの であって、他の家の野菜か何かが入ったざるが浮いていたり、中にはそのまま野 菜や果物を放り込んである。もちろん、誰かが持って行くなどあり得ない。

心太は周三の大好物だった。しかし、心太はかなり高いもので、そう滅多には 食べられない。しかし茂代は自分が食べなくても周三に食べさせようと、よく心 太を買ってきた。
「おめぇも食えよ。俺一人で食ってもうまかねぇ」
「良いんだよ、あたしはそれほど心太が好きって訳じゃないんだから。どっち かって言えばあんまり好きじゃないんだ」
「そうか。でも心太だって安くはねぇ。いくら俺が好きだからってこういつもい つも心太ばかりでろくに他のおかずがねぇじゃねぇか。汁と、漬け物だけで、俺 だけが心太を食う。それじゃ心持ちが悪い」
「ごめんね、今度おかずを増やすから・・・」
「そう言う事じゃねぇよ。怒ってるんじゃねぇ。まあ、いいから、心太半分食え」 「だから、あたしはあまり好きじゃないんだって」
「嘘つくな。最初の頃、所帯を持った頃、好きだって言ってうまそうに食ってた じゃねぇか」
「あれから・・」
「良いから食え。毒じゃねぇんだから」

周三が心太を半分茶碗に移して茂代に渡すと、茂代は嬉しそうな顔をしていそ いそと酢醤油をかけた。そしてうまそうに少しずつ一本箸で食べ始めた。周三は そんな茂代を笑いながら見つめ、そして自分も心太を食った。

「こう暑くちゃ確かに心太でも食わなきゃ元気が出ねぇな。それはおめぇも同 じだよ、茂代。夏場は心太を食えば飯もたくさん食える。まあ、幸いなことに、 今の仕事は明日は仕上がる。そうすればまとまった金が入るよ。そうなったら夏 中心太を腹一杯食えるさ」茂代は嬉しそうに笑った。

次の日、周三は仕上げた簪や櫛、帯留めなどの細工物を持って問屋に納めに行 き金をもらってきた。そっくり茂代に渡したが、どっちみち細工職人の手間賃は 高いものではない。特に周三の場合、材料を問屋から回してもらい、それを細工 して、できあがった品と材料の残りや屑も一緒に問屋に返す。ほとんど手間賃で あり、そして江戸の職人は宵越しの金を持たないとされていたくらいなのだ。だ が、それは日雇い職人の話であり、飾り職人のように、まとまった仕事をするた めには十日や一月はかかる場合、宵越しの銭を持たないなどと言っていられな い。もともと、宵越しの銭を持とうにももてるだけの収入がなかっただけのことだ。

それでも、何日かは二人が心太を食うことが出来たのは事実だ。問題は、次の 仕事の量が少なく、その後は心太はおろか、まともな飯もやっと食えるだけの金 にしかならない。周三は済まなく思ったが、茂代はいつもと同じ明るい顔をして いる。

そろそろ心太は出てこなくなるだろうと思っていたが、それからも心太が昼飯 自分に出てきて、しかも前よりおかずが増えている。周三は、茂代も心太を食べ ているので、きっと茂代がうまくやりくりをしているのだと思った。なにしろ茂 代に任せて置いて困ったことはなかったし、今の仕事は量が少ないが、次はきっ とたくさん仕事をもらえるのだ。

そんなある日、仕事をしている周三の所へ、近所の松木和男が顔を出した。
「おう、周、かみさん居るかい」
「今、買い物かな、出かけてるよ。何か用か」
「いやぁ、妙な話聞いてよ。おめぇのかみさんが大家の竹下陽介の家に入って、 暫くしてから妙に色っぽい顔をして出てきたってんだ。なんでも大家に店賃負け てくれって言ってたらしい。そして、店賃負けてもらっちゃ、なんでも心太を買 いに行くんだってよ。まあ、あまりみっともいい話じゃねぇなぁ」

当時江戸は大変な女日照りだから、職人で女房持ちは殆ど居ない。居ても、事 実上長屋の共有みたいなものだったから、たとえそんな話を聞いて嫌な思いはし ても、それで大家を責めるわけには行かない。だが、それが心太のためと聞い て、周三は心底哀しかった。

by ロクスケ

 


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