悪口

(これは私の小説サイトにUPした作品です)

 「俺、最近自信無くしちゃった・・・」
帰って来るなりへたへたとソファに座り込みつぶやく夫、飯田周三に妻の佐野茂代が訊いた。
「なによ。あんた元々自信のもてる物なんか無かったじゃない」
「亭主が帰ってきて、ふさぎ込んでるってのにその言葉か。励ますなんて事、お前には出来ないのか」
「悪かったわね。本気じゃないんだから、そんなにムキになることはないでしょ。どうしてそんなに自信無くしたのよ」

 なんと言ってももう二十五年連れ添った女房だ。性格はずさんだが、確かに細かいことを気にしすぎる周三とバランスがとれているとも言える。長男の竹下陽介は転勤で離れたところで一人暮らしだ。陽介はとくに優秀ではないが、のびのびと育ち、口は悪いが父親とも仲はよい。今時の若者が遠慮会釈なく親の悪口を言うが、おっとりした周三より、下町育ちで開けっぴろげな茂代に似たのだろう。
 
 周三が茂代と職場結婚をしたのは周三が三十の時、茂代が二十三の時だ。いわば事の成り行きというか、気が付いたら結婚していた位の意識しかない。しかし、良く出来た女房で、引っ込み思案の周三に代わり家を切り盛りし陽介を育て、どうやら周三が中堅どころの濡素六石材で部長になれたのも茂代の力が合ってこそだと周三は考えていた。だから、結婚当初はびっくりした茂代のあけすけな悪口も、悪気はないのだと思うようにしていたし、言っても治らないとあきらめてもいた。
 
 「今日、会社でな、ふと気が付いたんだ。みんなが俺の悪口を言っているんじゃないかって」
「悪口言われるような覚えあるの?」
「無いよ、そんな覚えは。入社当時からみんなと仲良くやってきたし、それなりに成績を上げてきたし、今では有能な部下にも恵まれている」
「じゃあ、なんで自信なんか無くしたの?」
「一週間ほど前、たまたま給湯室の前を通りかかったら、女子社員達が俺の悪口を言っていたんだ。そりゃ、部下が上司の悪口を言うなんて普通にもあることだし、俺だって若い頃は酒の肴に課長や部長の悪口を言っていたよ。別に本気じゃないんだ。ただみんなで上司の悪口を言うのがなんとなくその場の雰囲気の結果だからな」
「じゃあ、あんたが女の子達に陰で悪口を言われていたって気にすることなんか無いじゃない。本当に気が小さいんだから。あんた、よくそれで部長なんか務まるわね」

 口ではそう言いながら、茂代は周三の隣に座り、慰めるようにそっと腕をなでた。どうも言うこととやることが一致しないのが茂代の常なのだが、周三はもうなれていた。
「もちろんそれだけじゃ気にしないよ。どうせ、男どもだって、昔の俺たちと同じ、飲み屋でさんざん俺の悪口を言っているんだ。時には、俺がおごってやっても、その席で俺の悪口を言うんだぜ。でも、奴らはちゃんと仕事をするし、俺の指示もきちんと聞く。いや、きちんと聞くというより、一応はけちを付けるけどな」
「あら、面と向かって悪口言うの?それは許せないわね。でも今回はどうしたの。女の子が陰で悪口を言ったからって落ち込んじゃって」
「それだけならな。でも、その日、女の子達に言ったんだ。陰口を言うのはみっともない。言いたいことがあるなら私に直接言えって」
「それも大人げないわね。女の子達に、言いたいことなんかある訳ないでしょ。本気で言ってた訳じゃないんだし、ちゃんとあんたの支持通り動いていたんでしょ。そんな大人げないことをするから馬鹿にされるのよ」
そう言いながら、茂代は優しくほほえんだ。

 「それからだ。課の連中が俺の前で、平気で俺の悪口を言うようになったんだ。笑いながらごく当たり前に俺のことを馬鹿だとか無能だとか禿だとかデブだとか言うんだ。気が付いたら、お得意さん達も、俺の上司達も俺の前で俺の悪口を言う。電車の中では見ず知らずの奴らが俺の悪口を言っているんだ」
「あんた、それちょっとおかしいわよ。病院に行って相談しなさいよ」

 周三は参度総合病院の心療内科に行った。待合いロビーではどうもみんなが自分の悪口を言っているような気がして落ち着かなかったが、これも気のせいなのだと思いこむことにした。やがて呼ばれて、医師の松木和男の前に座った。
 
 「飯田さん、今日はどうしました」
「みんなが私の悪口を言っているような気がして仕方がないんです。被害妄想と言うんでしょうか。統合失調症の症状の一つらしいですね」
「素人が知ったかぶりをするんじゃないですよ。本当にあんたはおろかなんだから。だから何も出来ないし、人からも馬鹿にされるんです。どうしようもない役立たずだ」
「ええっ!先生までそんな。先生にそこまで言われる筋合いはありません」
松木医師は穏やかに微笑み、傍らの看護士に指示した。
「この人をさっさと連れ出しなさい、中根君。こんなくだらないことで来るような人、二度と受け付けないように」
「はい、先生。直ぐこの役立たずの愚図をつまみ出します」
看護士の中根真美は優しく周三の肩を抱き、診察室から連れ出した。それを見ている医者や看護士、事務員、そして入院患者達も口々に言った。
「どうです、見るからに間抜け面じゃないですか。被害妄想だなんて、それ自体が妄想なのに」
「しょうがないですよ。頭が悪いんだから。何でもかんでも他人が自分の悪口を言っていると妄想するんだからもうこいつの人生は無いも終わりですよ」

 その時携帯が鳴り、呆然としていた周三は無意識で耳に当てた。息子の竹下陽介の心配そうな声が聞こえた。
「親父?母さんから聞いたけれどさ、どれだけ人に迷惑かければ気が済むんだい?本当に何をやってもだめな親父なんだなぁ・・・」





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