余命


余命

「飯田さん、残念ながら手遅れでしたねぇ。全身に癌が転移していて、これはもうどうにもなりません。何故、こうなる前にいらっしゃらなかったんですか?」

医師に言われるまでもなく、飯田周三はほぞをかむ思いだった。確かに忙しすぎたと言うのはある。しかし、それが言い訳にならない事も承知だ。

 六十歳を過ぎ、妻にも健康だけは気を付けてくれと口を酸っぱくして言われている。言われるまでもなく、運動不足と接待続きの美食、過飲、ストレス解消の煙草の吸いすぎと、体に悪いことを全部やっていた。高をくくっていたとは言える。何か異常を感じたらすぐ医者に行けばいいと思っていた。その実、疲れがあったり胃が痛んだり、めまいがしたりなどの異常があったにも拘わらず、年のせい、ストレスのせいと言い訳をしていた。

 会社の定期検診もいつもさぼっていた。定年を間近に、時間が出来たら人間ドックにでも、と思っていた節がある。なにしろ、部長の席にあるのでは、自分の時間など持てないのだ、との言い訳を自分にしていたのだと、今は思う。しかし、現実に医者の言葉を突きつけられると今までの自分の怠慢を思わずにはいられなかった。

 「先生、手遅れと言うと、もう手の施しようがないと言うことなんでしょうか。あとどのくらい生きられるんでしょうか」
「珍しいタイプのガンで、一個所で大きくなるかわりに、細かいガン細胞が全身に転移しています。従って、手術でとることが出来ませんし、薬物や放射線もどこかに集中するのではなく全身に対処する為、使うことが出来ません。結局、栄養剤などで体力を温存し、緩和ケアでの処置が中心になるでしょうね」
「分かりました、それで、あと何年くらい・・・」
「短ければ三ヶ月、長くても一年と思われます。意識を保っていられるのは二ヶ月から十ヶ月くらいとお考えになった方が良いでしょうね」
「でも、急にそうなったんですか?」
「倦怠感、食欲不振、めまい、しびれなど色々自覚症状はあったはずですよ。でも、一個所で増殖するタイプではないので年のせい、多忙のせい、ストレスのせいにしてきたんでしょう。症状がはっきり出る形のガンではないのがむしろ不運だったですね」

 短くてあと三ヶ月の命であり、意識を保てるのが最悪二ヶ月だと聞いて、飯田は覚悟を決めざるを得なかった。幸い、自分が死んでも家族が生活に困ることはない。生命保険も多額だし、会社からかなりの退職金が出るだろう。遺族年金もある。そして子供達は全部独立しているから、あと金がかかるとすれば葬式代、墓代、そしてまだ独身の倅の結婚くらいのものだろう。蓄えもあるし、妻が食っていけないことはない。会社に辞表を出しても、既に部下は育っているし、自分の穴を埋める人材はいる。そして、周三の定年を間近に、会社でもそれを想定しているのだ。

 だとすれば、自分の残された短い時間をどう有意義に活かすかだけを考えればよい。体力があり意識もはっきりしている間に、自分が本当にやりたいことをやれば良いではないか、と飯田は思った。旅行なら国内外、仕事で方々へ行って来た。特に食いたい物もない。特に欲しいものも今となってはない。改めて自分が仕事一筋で何一つ趣味らしい趣味も持っておらず、自分を高めるための教養を積んでくることもしなかった。そして今、仕事を離れることを余儀なくされ、飯田は改めて自分とは何だったのかを思い知った。何しろ、仕事を離れると友人一人いないことに気が付いたからだ。

 妻は夫の話を聞き、最初こそ驚いたが驚くほど早く立ち直った。というより、妻にしてみれば落ち込む理由がなかったのではないかと周三には思えたほどだ。育児も家のことも親戚づきあいも全部妻に任せてきた結果がこれなのか、と飯田は愕然とした。残された時間は最短二ヶ月しかない。飯田は、その時間と、自分が使える金の全てを自分のために使う決心をした。

 自分名義の財産を全て金に換え、妻に内緒で生命保険を解約し、会社から退職金を担保に前借りをした。そして、大企業重役の立場で持つことの出来たクレジットカードから目一杯の金を借り、家を出た。それでも、計算では残された家族が金に困ることはないと計算の上でだ。むろん、自分ですでに家族とのつながりが全くなくなっていたと感じたからだった。匿名でマンションを借り、とにかく二ヶ月逃げおおせればそれで良いと思ったのだ。

 莫大な金を大急ぎで手にした飯田は偽の戸籍を買い、それでマンションを借り、保険証などを入手した。金に物を言わせて、別人として病気の治療も受けられるようになったが、治療と言うより、苦痛を取りのぞき、体力を温存する処置に集中した。そうやって一人になってから、実際何をしたらよいのかを考えたが、思いつかず、結局は自分が会社以外の人間関係を持っていなかったのがこうなった原因だと考えついた。そして、地域のボランティア活動に加わった。家事は一人では一切出来ないので、家政婦を雇うことにした。

 最初はボランティアと言っても何をして良いか分からなかったが、色々教えてもらいながらやっているうちに、やはり大きな会社でそれなりの地位にいた経験が役立ち、その活動の中でも頭角を現すことになってきた。会社のバックがない、と初めから自分に言い聞かせていたのでとにかく人付き合いには最大限の気を遣った。というより、誰が自分を軽んじたとか馬鹿にしたなどを全く気にしなくなったのだ。どうせ、自分は何ヶ月もしない内にいなくなるのだ。喧嘩などしている暇はない。また、勿論残して置いても意味のない金を有効に使ったという事もある。

 結局、飯田は二ヶ月どころか、二十年を元気に過ごした。病気のことなど気にしていてもしょうがない、と開き直ったら自分でも忘れている内にもしかしたら治ってしまったのか、とにかく医者が、もうどこも問題がないと言うようになったのだ。

 八十を幾つか過ぎ、飯田はなおかくしゃくとして社会奉仕に動き回った。持ち出してきた金はほぼ底を突いていたが、新しく作った人脈で始めた仕事がうまく行き、金の心配をする必要もないし、そして長年雇っていた家政婦と今では一緒に暮らしている。八十を過ぎて、飯田は癌の余命などとっくに忘れていたし、もしかしたら自分の名前さえ忘れているかも知れなかった。

by ロクスケ


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