嫁入り

 なつが鏡に向かってしきりに化粧をしているところへ、シゲがふすまの向こうから声をかけた。
「なつ、入るよ」
「あ、おっかさん?良いわよ。もうすぐ済むから」
声に応じてシゲがふすまを開けて入ってきた。それからなつの後に立ち、鏡越しになつの化粧を見ていたが、ふと気が付いたように言った。
「なつ、あんた乳が少し黒くなってないかい」
言われて、なつは改めて諸肌脱ぎになっていた胸を見下ろした。自分では乳房がいつもと変わっているようには見えない。十八歳にしては少し小振りだが、張り切って形の良い乳房に、小さめで色の薄い乳首がちょこんと付いている。
「そんなことないよ、おっかさん。でももしややが出来ても、いっそのことかまわないじゃないか」
「そうは行かないよ。やっぱりこれはきちんとしてからの方が良いんだ。でも、こまったねぇ、もしそうなら。話を急がなくちゃねぇ」




 そう言いながらも、シゲはなつの後に座り、髪をなでつけてやる。我が子ながら、この界隈はもちろん、昔自分が居た大見世にもこんな器量好しは居ないと改めて思った。
「あんた、今が華なんだねぇ。本当にきれいだよ。あたしがあんたの年の頃、悔しいけどこんなにきれいじゃなかったよ」
「そう?なら、どうしてあたしをおっかさんが居た濡素六楼に入れてくれなかったのさ。とは言ってもいつもその訳は聞いているんだけれど、でも濡素六楼みたいな大見世の呼び出しか座敷持ちにでもなれればもっといい目に逢えたんじゃないの。太夫とまでは言わないけど」
「そうだねぇ、あんたなら濡素六楼の太夫になれたかも知れないけれど、でもあたしは呼び出しにもなれなかったし、たとえなれたとしてもそれはそれでつらかったろうよ。今はこうしてあんたと一緒にいられるし、ごひいきさんも居るし、何てったってあんたはうちのお職だよ」
「お職と言ったって、あたしの他に二人の姐さん達が居るだけの小見世だし」
「真美だって、お和だって、余所に行けば立派なお職か呼び出しで通じるよ。でも本人達はうちが気に入って、うちでのんびり稼いで好きな人だけ相手にしているのが良いって言うんだから、それで良いのさ。あんたは、本当のお女郎の苦労を知らないから、そんなこと言えるんだよ」

 「おかあさん、なつちゃんのお迎えが来ましたよ」
ふすまの陰から、真美の声がした。
「あ、そうかい。直ぐ行くよ。車屋さんにちょっと待ってもらうように言って。それと十銭包んでやっておくれ」
シゲは化粧を終えたなつを手伝い着替えをさせる。飯田周三にあつらえてもらった銘仙の着物で、明るい青に大胆な朝顔の柄だ。
「随分派手な柄だねぇ。あたしの頃にはこんな柄は恥ずかしくて着られなかったよ」
「良いのよ、おっかさん。飯田さんがこんな柄を好きなんだから。これ多分二十円はするわよ」
「そうだろうねぇ。もっとするかも知れない。普通の銘仙の倍じゃきかないよ。でもまあ、あんたが着るとやっぱり似合うねぇ」
「いくら下っ端でも、お役人はこんな着物くらい平気で買えるのよ」
そんなことを話しながら、シゲは人力車で茶屋のふろとへ行くなつを見送った。

 「ああ、やっぱり似合うよ、なつ。僕の見立ては間違っていなかった。脱がせるのは惜しい」
「そんな、周さんたら」
ふろとの一室でなつを待っていた大蔵官僚の飯田周三は、上機嫌だった。そんなに待たせたつもりはないのに、少しろれつが回らなくなっている。いつものようになつは飯田に酌をしようとした。が、その手を飯田は引っ張った。

 いつもより行為が激しく、それも二度三度と気をやり若いなつも応じきれないほどだ。
「周さん、今日はどうしたんですか。こんなにせっかちにしなくとも」
「あ、済まない。そうだな、お前と一緒になるんだから焦ることなんか無いと思っていたのになぁ。まあ、ちょっと呑もう」
横座りしたなつの身体を眺めながら、飯田は手酌で飲み始めた。なつに酒を勧めることも忘れているようだ。
「そんなに見ないでください。恥ずかしい・・・」
胸を覆ったなつの腕をのけて乳房を軽くなぶってから手を放し、飯田はぼうっとしたような顔をしていたが、やがて話し始めた。
「君の見世の女将って、君の実の母親なんだよな。いや、珍しいことだと思ってさ。娘に客を取らせる母親って聞いたことがない」
「そうですか?おっかさんは昔、吉原の女郎だったんです。濡素六楼っていう大見世ですから、知ってるでしょ。呼び出しにもなれなくて、あ、呼び出しって一番下の花魁ですよ、年季明けの時になってやっと旦那が付いてお囲い者になってたんですけど、その旦那が直ぐ亡くなって、それから今の見世を持ったんです。吉原からは離れているけれど羅生門河岸なんかの見世と違って、よほど上等な見世だし、ごひいきさんも付いて、お姐さん達にもよけいな苦労をさせなくて済むって言ってるの」
「でも、あの見世にはちゃんと女郎が居るじゃないか。真美もお和も美人だし可愛いし、結構流行っている。なにも君を女郎にしなくても・・」
「真美姐さんもお和姐さんも初めからおっかさんの事を知って自分から来たのよ。借金で来たんじゃないの。好きなときに稼いで、何割かおっかさんにはらって、あとは自分の物だもの。うちに来たいって言う姐さん達たくさん居るのよ。でも、うちのような小見世なら三人くらいでちょうど良いし、あたしもおっかさんと一緒にいられるし、そのうちにいい人が見つかるから一緒になればいいって」

 なつにとっては別に不思議だとも思わない。女郎の子が女郎になる。母親の傍にいていろいろな事を学び、男を選んで、一番いい男と一緒になるのがなぜ飯田にとって不思議なのか、分からなかったのだ。シゲがそうしてくれたから、金を持っている男達がくるし、妾奉公でも所帯を持つにしても苦労をする必要はないのだ。現に、これから出世する飯田のような有望な男が、なつを女房にしたいと言って来たのだ。
 
 シゲとなつが警察に呼ばれて飯田周三が役所の金を使い込んで逮捕されたことを知ったのは、それから三日ほど経った頃だった。大勢の巡査達に取り囲まれ、二人引き離されてさんざん毒婦、そそのかした、女郎、売女とののしられ怒鳴りつけられ、やっと二人が飯田の犯罪とは関係がないとの事で帰されたのはその日の真夜中近くになってからだった。

 「なつ、あの男は食わせ物だったねぇ。あきらめるより仕方がないよ。でも、ややこを何とかしなくちゃ」
「あのひと、あたしも好きだった。一途な人だったもの」
「でもあんたに通うために役所の金に手を付けたんだ。うちも大迷惑さ」
「あの人、どうなるかしら」
「知ったこっちゃないよ。良いことに売り掛けはないけどさ。幸い誰にも知られてないんだ、あんた、とにかくややこを堕ろさなくちゃ。心配ないよ、なかの姐さん達も行く腕のいい医者が居るんだから。それから十日ほど温泉にでもいっといで。そうだねぇ、松木の旦那にでも連れて行ってもらうよう頼もうか」
「松木の旦那って、お和姐さんのごひいきじゃないの。そんなこと出来ないわよ。それにもう四十も随分超しているし、あ、奥さんが居るじゃないの」
「お和と松木の旦那はもう切れてるよ。べつに義理を欠くことじゃない。それに、所帯を持つだけが全部じゃないよ。松木の旦那、もう一人脇に別宅を構えたいんだってさ。お金持ちだしさ、女房になるより気楽だよ」

 ふくよかで温厚そうな松木のことを思い浮かべ、お和と悶着が起きないならシゲの言う通りにしても良いかも知れないと、なつはふと思った。
 







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