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第53回天童桜まつり 人間将棋 船戸陽子女流二段−島井咲緒里女流初段 2008.4.19(土) 於 天童市民文化会館 (1) |
写真トップは、指導対局中の船戸女流初段(左)と、島井女流初段(右)。 写真左は、将棋の女王(こまのじょおう)。
戦国大名には、生き残った家と滅びた家がある。
信長の織田の家系は、4家が大名として江戸時代の終りまで存続した。 (他に旗本や尾張藩士の家系がある。) 信長の次男、信雄の系統が、丹波・柏原(かいばら)藩と出羽・天童藩。 信長の弟、長益(有楽斎)の家系が、大和の芝村藩と柳本藩。 何れも一、二万石の小藩である。 天童藩が一番有名…だと思うのは、将棋ファンだからだろうか。 天童市は、旧藩以来の将棋の駒の生産地として知られる。 そして春には、毎年「人間将棋」が行われる。 今年は4月19日、20日であった。 初めて天童へ行き、人間将棋を見ることにした。 18日の夜、翌朝天童へ行く切符を買った。 東京発7:16の山形新幹線つばさ103号が、天童着10:21。 指定席は売り切れていた。 その前の便は早すぎ(起きられそうもない)、次は遅すぎる(イベントが始まってしまう)。 生まれて初めて、グリーン車に乗ることにした。 自由席を買っておく手もあったが、安全策を取った。 19日(土曜)。 東京駅で、つばさ103号に乗車。 東北新幹線MAXやまびこ103号と連結している。 福島で切り離され、進路を分かつ。 MAXやまびこは2階建てで、特に大きいのに比し、山形新幹線は小さい。 自由席は結構空きがあった。 わたしは己の勇気の欠如を恥じ、悔悟の念にとらわれた。 マハトマ・ガンジーは、イギリス人でないという理由で2等車への乗車を拒否され、独立運動を決意したのではなかったか。 しかるに我ごときが、グリーン車へ乗るなど増上慢も甚だしいのではないか。 というようなことを考えていてもしょうがないので、気持ちを切り替えてグリーン車を楽しむことにした。 東北新幹線なら、普通車両では横に5席(2+3)で、グリーン社が4席(2+2)なのであろうが、山形新幹線は小さいので普通が4席、グリーンが3席である。 グリーン車は1車両で、7列×3席=21の席数しかない。 わたしの席は、2席並んだ通路側であった。 隣には、お上品な奥様がお座りになった。 時々、「クン、クン」とおっしゃる。 何かと思ったが、どうやら咳をされているらしい。 ゴホンゴホンというべきところ、お上品なのでクンクンというようだ。 さて、グリーン車は確かに間取りがゆったりしていて、いいのだが、お弁当を食べる段になると、前の席の背もたれの後ろにテーブルがついていないので、果てどうしたものかと困っていると、隣の奥様が、席の脇の手を置く部分に内蔵されているテーブルを取り出し始めたので、なるほどと思い、まねをして、お弁当を食べることができた。 食後、奥様は寝てしまわれたので、わたしも寝ることにした。 起きると、福島であった。 東北新幹線との切り離しがあるのだが、車中にいるとわからない。 山道を、米沢へ向かう。 この道は昨年5月、米沢まつりを見に来たときに通った。 新幹線といいながら、在来線と同じ線路を走る。 携帯電話が圏外になる。 線路のすぐそばにも、溶け残った雪。 米沢に着いた。 グリーン車の客は、多くが降りた。 旧米沢藩ゆかりの方々であったか。 田んぼの広がる米沢盆地を走る。 山を抜けて、山形盆地へ入る。 山形駅を抜けると、山形城址の見事な桜が見えた。 行って見たい所である。 程なく、天童駅。 奥様にご挨拶をして、下車した。 この便は、新庄まで行く。 奥様はそこまで行かれるのだろうか。 なお、グリーン料金は4,000円であるが、そこまでのプレミア感はなかったというのが正直なところである。 |
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写真は、客席を通って登壇する駒武者達。
観光案内所でチラシをもらい、駅前のロータリーへ下りると、シャトルバスが待っていて、会場まで乗せてもらえた。 生憎の雨模様で、会場は屋外(舞鶴山)から屋内(市民文化会館)へ変更になっていた。 バスはすぐ着いた。 歩いても大したことはないであろう。 会場は市役所の隣で、大きな建物であり、ホールのキャパシティは千人を超える。 客席は縦に27列、横は40席前後。 ステージに向かって、後ろの席に行くほど高くなる、普通の構造。 チラシでは10:35将棋供養祭、10:50開会式、とあったが、供養祭は屋外でやるもののようで、なし。 開会式は11:00くらいからであった。 プロの女性司会者。 まず、桜まつり実行委員長のあいさつ。 次いで、天童市長の挨拶、のはずが、用事で来られないとのことで副市長。 将棋の女王(こまのじょおう)2名の発表。 1年間、将棋のまち・天童のPRに努める、との由。 それから、「対局前イベント」として、次のような出し物が行われた。 マーチング演奏(あけぼの幼稚園) 演舞(羽陽学園短期大学) 踊り(ゆういんぐ天) 空手演舞(天童高校空手部) 踊り(片羽おどり隊) 太鼓演奏(湯の上太鼓<津山小学校>・北部太鼓<北部小学校>) 将棋だけを見たい人には不要のもののようでもあるが、実はこちら目当てと思われる客も結構いて(父兄や同級生)、終ると帰ってしまったりするのである。 何時から始まったか忘れたが(チラシでは11:20から)、人間将棋の始まる予定の13:00まで、びっしりやる。 将棋だけ目当ての人は席をはずして何か食べるのかもしれないが、わたしはせっかくなので全部楽しんで見た。 おかげで、天童では何も食べなかった。 いよいよ、人間将棋である。 ステージ上には罫線が引いてあって、盤が既にできている。 織田信長が現れる。 人間将棋の由来は秀吉にあるそうだが、織田藩なので信長なのであろう。 信長が、東西の軍奉行を呼びつける。 2人が殺陣を見せる。 この3人は役者なのだろう。 小芝居がはじめは続く。 東西の両軍勢が呼び出され、客席を通ってステージに上がり、左右に分かれて陣取る。 向かって右の西軍が赤備え。 左の東軍が青の具足。 再び殺陣ののち、将棋で決着をつけることに。 (ここら辺りの芝居は、正直微妙である。) 胴具足に烏帽子を被った、船戸・島井の両女流棋士、スーツの上に陣羽織を羽織った、解説の片上五段が登場。 この人達は普通のしゃべりである。 ステージの両脇に、両軍の指揮所?があり、右に西軍の船戸女流二段、左に東軍の島井女流初段が登る。 見えないが、手元には盤駒があるらしい。 更に右手には、解説用の大盤があり、片上五段と聞き手の日本将棋連盟天童支部の山口さんが陣取る。 島井女流初段だけ離れているので、ちょっと寂しげである。 対局者がマイクを使って差し手を言う。 それに応じて、太鼓が打ち鳴らされ、駒に扮した人間が動く。 自分で判断するのはなかなか難しいらしく、黒子が動いて指示を出す。 この日は歩が女子高生、それ以外の駒は男子高校生であった。 持ち時間はないのだが、対局者が少し考えると、解説の片上五段が色々な話題を出して時間をつなぐ。 両対局者も、手を読みながら結構しゃべる。 3人の掛け合いはチーム・ワークがよくて、とても楽しかった。 対抗形の相穴熊で長い勝負となり、時間が切迫したようで、途中から30秒の秒読みとなったが、聞き手の支部会員の方が時計も見ずに秒を読む。 身に染み付いた時間感覚の正確さに感心した。 わたしは前の席にいたので、人間将棋を真横から見る感じで、正直盤面はわからなかった。 後ろの高い席からなら、ある程度わかるように見えたかもしれない。 |
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写真は、織田信長公の御前で斬り合う東西両軍の軍奉行。
対局は15時少し前に、島井女流初段の勝利に終った。
人間将棋の場合、全ての駒を動かす(駒の人全員に動いてもらう)ことが目標となっているようで、対局者も解説もそれを意識していたのだが、残念ながら2つの駒が動くことなく終った。 東軍の軍勢とともに、島井女流初段が勝どきを上げたが、その際役者の軍奉行が、対局前は武将らしく「島井の咲緒里殿」と呼んでいたのに、片上五段に引きずられたのか、この時には「島井姫」と呼ぶようになっていたのが面白かった。 なお島井姫は、挨拶でお辞儀をするたびに、刀を抜き身で落っことすのが危なかった。 島井姫と片上五段が、東軍勝利を祝って餅撒き。 もっともほんとに撒くのは危ないので、客席を回って配る。 すぐ後ろの方に行ってしまったので、興味を失い、手帳に書いた棋譜を確認していると、ステージの方に戻ってきた片上五段が、押し付けるようにわたしにくれたのは、餅ではなく包んだ5円玉。 家の棟上げ式の餅撒きと同じなのだなと思った。 これでステージの行事は終了。 予定は14:30だったが、実際は15:00くらい。 30分ほど間を置いて、別室で指導対局。 事前に申し込みをしていた人だけだが、見学は可能。 片上五段が15人、両女流が各8人の多面指し、であったが、片上五段がつくはずの男性が島井女流初段に変えてほしいと言い(間違えたのかもしれない)、島井さんが快諾したので、その分増減があった。 わたしは少しだけ見て、帰った。 シャトルバスで送ってもらい、天童駅に着いたのは16時頃。 16:10に電車があったが、乗らずに駅前の「天童市将棋博物館」を1時間ぐらい見た。 様々な駒の見本があり、駒を1つお土産にもらえた。 これは木材を駒の形に切ったところ、節目があったり色のついた所があったりして、使えなかったものだと思われる。 まだ字を書く前のものである。 展示物で面白かったのは、「野弁当将棋盤」。 織田藩の家紋入り野弁当で、ふたが将棋盤になっている。 野外での食事後、将棋を指して楽しまれたものと思われる。 と説明書きにあった。 弁当箱の下部には将棋盤のような足があり、ふたを閉めれば丸きり将棋盤であろう。 将棋盤の中に、食べ物が入れられる、と言った方がいいかもしれない。 織田藩での駒作りは、高畠時代(1767-1831。高畠は天童の前に陣屋のあった地名)には行われていた。 天童に移館しても続けられ、特に幕末の家老・吉田大八(1832-1868)によって、武士の手内職として積極的に奨励され、今日の天童将棋の基礎が築かれた。 との由(展示より)。 なおこれは将棋とは関係ないが、天童藩の辺りは、他に幕府領(天領)、館林藩・土浦藩・棚倉藩の領地(飛び地)が入り混じっていたとのこと。 こういうことは実は多いようだ。 17:09、JR奥羽本線・山形行に乗り、羽前千歳駅で下車、少し待って17:44、仙台行の仙山線快速に乗り換え、実家に帰った。 仙台着は19:00ちょうどであった。 翌20日は仙台から天童に行くことも考えたが、結局行かなかった。 この日は晴れて舞鶴山で人間将棋を開催できたとのことで、見られず残念であったが、仕方ない。 また行く機会もあろう。 メニューページ「天童是か非か」へ戻る |