論文「ヒール=ベビーフェイス・システムの崩壊」1989?


 オリンピックを見ていてもっとも面白いのは、日本選手の出る競技であり試合である。日頃はナショナリズムなど全然縁のない人間でも往々にして、表彰の際の「日の丸」や「君が代」に感動する。日本選手のプレイに一喜一憂し、敵が少しでもダーティなことでもしようものなら(又はそのように思えたならば)、日頃温厚な人もいささかなりともカッとなるかもしれない。
 これは高校野球でも同じことである。自分の地元の高校と戦う高校の選手は、ときとして憎たらしく見える。そして、これは違う人も多かろうが、少なくともわたしは、地元の高校が負けたとたん甲子園に興味がなくなってしまう。

 スポーツに限らない。何かの勝負ごとを、やるのではなく第三者として見る場合、もっとも楽しんで見る方法はどちらか一方に肩入れすることだろう、と思う。かっこのよいヒーローが悪者どもをやっつける勧善懲悪劇が、いつの世もいかなる国でも受けるのを見てもわかるように、我々は自分の応援するものが勝つ所を見るのが大好きなのだ。自分の国が、自分の民族が、自分の出身地方が、自分の学校が、自分の友人が、自分の好きな人が—あるいは自分の賭けた方が――勝つのを我々は見たいのだ。

 だから、あるスポーツ――あるいは他のものでもよい――がある人達の中で人気を得るのには、その人達がそのスポーツ自体におもしろみを感じることは当然として、その他にも、その人達が肩入れできる、応援したいと思う選手が、そのスポーツで活躍しているということも、大事なのではないかと思う。長嶋が日本の野球人口――やる人であれ見る人であれ――を増やしたことは、証明はできないかもしれないが間違ってはいないだろう。

(あまりに単純なスポーツは、プロ・スポーツとして成り立たない。陸上競技や水泳にプロはない。競馬や競輪は賭けがあるからこそあるのであり、競技自体に魅力は薄い。しかし、これらのスポーツも、オリンピック等では見るに値するものになる。国を背負っての戦いになるからである。)

 さて、お金を取ってお客を集められるほどの魅力を持ったプロ・スポーツも、常に全てのお客さんを満足させられるわけではなく、ことに自分のひいきの選手・チームの勝つ所を見に来ているお客さんは、かなりの割合で、満足の代わりに失望を受け取って帰るのである。
 しかし、これがフィクションの中の勝負であったならばどうであろう。その虚構の勝負は常に人々の望む結果に終わることが可能であり、そして実際にもそうなっているのである。しかし、それには皆が、同じ一方の側、同じ人、同じグループを応援し肩入れする。そうなるように仕向ける、ことが前提として必要である。その結果、勝利する者=ヒーローはあまりにかっこよく、負ける者=敵役はいかにも悪者らしい悪漢になるのである。

 しかし実際の勝負ごと(プロ・スポーツ)においては、憎まれるためだけにいる悪者はいないし、誰が人気を得るのかもあらかじめ決められてはいない。勝負は誰が勝つかわからないし、見る者も自由に、自分の好きなように応援すべき者を選ぶことができる……

 ところが、である。何にでも例外はあるということだが、ここにもあった……それがプロフェッショナル・レスリング、通称プロレスである。
 興行側が客の応援を得る役と客に憎まれる役とを競技者それぞれにふりわける。前者をベビーフェイス、後者をヒールとアメリカでは言う(メキシコではリンピオとルードである)。このような、ヒールとベビーフェイスの対戦という形で試合が行われるシステムは、田鶴浜弘氏によれば、1940年代アメリカでプロレスがTV放映されるようになり、お茶の間へ入り込むようになってから確立された、とのこと。氏はヒールとベビーフェイスについて「ドラマの配役めいている」と言っているが正にその通りで、プロレスはこれによりもっともドラマ、フィクションに近づいたプロ・スポーツとなった。

 アメリカはともかく、日本ではどうか。日本ではそもそものはじめから、このヒール=ベビーフェイス・システムが確立された。日本人同士が闘うのは前座だけで、メイン・エベントは日本人対外人であった。太平洋戦争の記憶も覚めやらぬ頃だから、外人レスラーは反則などやらなかったとしても(もっともやっていたが)、絶対的なヒールであり、それと闘う日本人は――少々見栄えが悪くとも、あるいは弱くとも――ベビーフェイスとなった。
 そして国技・大相撲出身の力道山が、外人――多くはアメリカ人の巨大なレスラーを相手に、一歩も譲らぬ激しいファイトを見せたからこそ、プロレスは絶大な人気を得た。彼抜きに日本のプロレスは存在し得なかったろうが、オリンピック同様の国民のナショナリズムが彼をスターにしたのである。

 もっともわたしは若いので昔の話は得意ではないし、本稿の趣旨でもない。だから以後の歴史は簡単に済ませたいが、力道山以後もこの日本人=ベビーフェイス、外人=ヒールのナショナリズム的日本的システムは継続した。
 プロレス会社も見る側も自然にこれを受け入れていた。もっともB・ロビンソンやM・マスカラスなど、日本人にとってもヒールとは言えない外人が、昭和40年代には登場している。もっとも彼らは例外にすぎないし、ロビンソンなどは日本陣営に入ってしまったし、戦争も遠くなってナショナリズムも薄れ、外人=ヒールの一元的見方が弱まった、というだけで、ヒール=ベビーフェイス・システムは基本として存在した。
 40年代後半から50年代になると、日本人同士の闘い、外人同士の闘いで、日本人ヒール(大木、上田等)や外人ベビーフェイス(ファンクス等)が生まれるなど、かつての図式が成り立たなくなりつつあったものの、基本的には日本人対外人形式、そしてヒール=ベビーフェイス・システムが残っていた。

 そのシステムが大きく揺らぎ始めたのは、57年から始まる長州の造反、維新軍結成からであったと思われる。つまり、日本人同士の団体対抗戦が、新日本プロレスという一団体内でシリーズを越えて継続化されたのである。

 文字通りの団体対抗戦は、過去、全日対国際、国際対新日の戦いが、単発で、長くてもせいぜいミニ・シリーズで行われている。
 それらの試合においては、通常のヒール=ベビーフェイス・システムは成り立たず、他のスポーツ、例えば野球の巨人阪神戦のような様相を呈する。巨人ファンにとっては巨人は絶対的なベビーフェイスであり、阪神はヒールである。阪神ファンにとっては逆が成り立つ。
 プロレスの団体対抗戦についても、同様に言える。言ってみれば、観客席が野球場のスタンドの様に、敵味方に二分されるのである。
 これは通常のベビーフェイス・マッチにもあてはまりそうだが、例えば鶴田・マスカラス戦等を考えてみよう。マスカラスファンにとって、鶴田が絶対的なヒールとなっているだろうか。
 野球で言えば、阪神ファンにとっても対ヤクルト戦と対巨人戦の違いであり、同じ負けるのでも巨人に負けるのでは口惜しくてしょうがない、というのと同じである。新日ファンにとっては、猪木は馬場やR木村に負けてはいけないのである。

 この団体対抗戦の図式を、一団体内につくり、それをお祭り的にではなくシリーズの中心にどっかと据えたのが当時の新日だったのである。
 その当時、長州軍の他に、国際血盟軍もあったが、これは国際プロレスが崩壊し国際ファンも散り散りになってしまったのか、新日マットでは完全なヒールであった。だからかもしれないが、その内に解体してしまった。
 猪木以下の正規軍に対抗する人気を得た長州軍は、その後独立もできた程の陣容と勢いを当時持つに至ったのである。

 彼らは従来のヒール=ベビーフェイス・システムを変えた。が、それで別のものが生まれた、とは言えない。従来のドラマ・タイプから巨神戦タイプへと変わりはしたものの、全体としてはともかく、個々のファンにとっては強力なベビーフェイスとヒールが存在し、その闘いこそがあの熱狂を生んだことを考えると、変容した言わば新しいヒール=ベビーフェイス・システムが存在していたと言ってよいだろうと思う。
 また逆を言えば、従来のドラマ的システムが、もはやファンに強力にアピールするベビーフェイスやヒールを供給し得なかったがために、新しいヒール・ベビーフェイス――熱狂と興奮を与えてくれるレスラー――を待望していたファンが、あれ程の熱狂を正規軍対維新軍の試合に示したのかもしれない。

 考えてみれば、新全両団体のトップ外人と呼ばれ、同時にトップ・ヒールでもあったシン・ブッチャーはマンネリ化が叫ばれ、そのためかともに相手団体に転出を図ったが、その後もパッとしなかった。また彼ら以降、凶器を使う悪党らしい悪党レスラーが日本に登場したことはない。
 G馬場にも人気実力に衰えが見え始めていたし、A猪木にもそういうことがあてはまったかもしれない。猪木のカリスマ性がいささかも衰えていなかったとしたら、敵対する日本人レスラーがファンの支持を得られるなど考えられなかったはずだ。

 つまりファンは、新しい強力なベビーフェイスを望んでいたのである。従来のヒール=ベビーフェイス・システム、ことにありきたりの日本人・外人対決では、もはやそれを供給することができなかったのだ。

 しかし維新軍対正規軍の巨神戦型システムがそれを可能にした。長州力が絶大な人気を得た他、猪木もまた長州という強力なヒール(猪木ファンにとっての)のおかげで、(光が影によって引き立つように)ベビーフェイスとして息を吹き返したのである。

 新日が全日を尻目にブームを巻き起こした原因は、ここにあったと見ていい。

 しかし、それだけがあの活況を生んだ原因とするのは誤りであろう。
 ヒール=ベビーフェイス・システムを変えただけでなく、彼らは新しいファイト・スタイルを生み出した。それを「ハイ・スパート・レスリング」と名付けたのが誰なのかは知らないが、あの息をもつかせぬハイ・スピードの攻防と多様なコンビネーション・プレイは、世界に、そして歴史に類を見ないものと言っても過言ではない。
 新しいファイト・スタイルをファンが求めていたということは、同じ時期タイガーマスクがその「四次元プロレス」で、従来のヒール=ベビーフェイス・システムの中で大変な人気を獲得したことでもわかる。

 レスラーの質・量ともに新日に劣っていたわけでもないのに、その同じ時期全日の人気は相対的に振るわなかった。
 それでもハンセン戦で、馬場がよみがえったようなファイトを見せたが、ハンセンが新日トップ外人だった所にある全日ファンにとってのヒール的な価値(なぜならば間接的に馬場・猪木の実力評価ができるから)も段々と薄れていった。夢のコンビ、ハンセン・ブロディ組が今一つパッとしなかったのも(もっともそれなりに人気は得たが)、彼らがヒールともベビーフェイスともつかなかったからであろう。
 全日はヒール=ベビーフェイス・システムの危機の時代を無為に――これまで通りのやり方で乗り切ろうとしていたのである。そしてその解決は、長州軍=ジャパンプロレスとの対抗戦が始まるまで待たねばならなかった。

 維新軍・正規軍抗争が団体対抗戦である以上、それはいつかは――決着がつけば、終わらざるを得ないものだった。しかしその後に来るものが何であればよいのかは、誰もわかっていなかった。
 だから長州は独立し――新日を離脱して、全日との新しい団体対抗戦に賭け、そして残された猪木ら新日軍は、正直に言って途方にくれてしまっていたように思える。ドラマ型スタイルのヒールであるストロング・マシンズを登場させて手勢の少なさを補うことがせいぜいであった。つまり昔のヒール=ベビーフェイス・システムが復活していた。
 新日に再び転機が訪れるのは、U.W.F.勢の復帰を待たねばならない。

 さてここで、今まで述べていなかったU.W.F.について述べねばなるまい。U.W.F.が一体どういういきさつで生まれたのか、わたしは知らない。現在のU.W.F.に対して、当時のU.W.F.を旧U.W.F.と呼ぶことにしよう。
 旧U.W.F.は最初から終わりまで、細々とやっていた弱小団体に過ぎない。しかしそこではヒール=ベビーフェイス・システムはおろか従来のファイト・スタイル、興行形式をもガラリと変えた実験的なプロレスが行われた。
 前田・藤原らが目指したのは、道場やかつての新日の前座で行われていた、シビアでストロングな格闘を見せるということであった。もともと前座にはヒールもベビーフェイスもないし、旧U.W.F.にもそれらは存在しなかった。
 ことに佐山が参加してからは、試合やシリーズの性格も変わり、新しいプロレスが生まれつつあったのは確かだ。しかし旧U.W.F.が最後までマイナーな存在のままつぶれてしまったことは、多くのファンの意識がまだそこまで――つまりこれまでのプロレスとは違う新しいものを求めるところまで、行ってなかったことを示すように思える。ファンはまだベビーフェイスを求めていた。

 旧U.W.F.の倒産で、新日はU.W.F.勢との団体対抗戦に入る。
 新日はB・ブロディの獲得で息を吹き返しかけていた。新日ファン共通の危機意識の元、行われた救世主・ブロディと猪木、あるいは藤波と猪木との対決は、ヒール=ベビーフェイス・システムを超えた、猪木久々の名勝負となった。
 しかし新日ファンが危機意識の元、一体となっていたがために、キックと関節技のU.W.F.の異質なファイト・スタイルには拒否反応を示し、かつての維新軍−正規軍のような新ヒール=ベビーフェイス・システムが再現された。U.W.F.ファンはU.W.F.ファンで、U.W.F.のファイト・スタイルの優位性を証明するために前田らに強い所を見せて欲しかったのだろう、と思う。新日は久々に活気を取り戻した――そこに、長州らが帰ってきて、成り行きが大いに期待された。

 さて、全日における長州軍=ジャパンプロレスはどうであったか。
 長州は「イデオロギーの戦い」を叫んだが、新日−U.W.F.に比べると、そのファイトは(後半特に)割とかみ合っていたように思える。鶴田、天龍も応戦し、全日本マットは活性化した。長州人気はまだ続いていたし、その興行価値は大きかった。全日はTV放送をゴールデン・タイムに戻した程だった。
 しかし、この路線もいつかはマンネリに陥る。長州は再び戦う相手を変えることで、それを防ごうとした。
今度は全日本軍が取り残された。

 長い間のインターバルを経て(その間に契約問題がクリアされなければならなかった)、長州らは新日へ復帰した。U.W.F.を加えた三つ巴の戦いが繰り広げられるだろう、と思われた……しかし行われたのは、これまでの三つの組織をばらばらにし、混ぜ合わせてつくられた新と旧の世代間闘争であった。
 これこそが、かつての陣容を取り戻しながらも新日がパッとしなかった原因、大きな失敗だったというようにわたしには思える。
 突然の世代闘争はファンを戸惑わせた。旧来からの新日ファンは、U.W.F.の異質なスタイルを拒否し、長州軍には「どの面下げて…」という感情が確かにあった、と思う。三つ巴の団体抗争で、三軍のファンは当分は満足できたと思う(その結果が出るまでは)。
 当時は確かに、そのような状態にあったと思う。

 しかし、ファンが(くっきりとは言わぬまでも、ぼんやりとでも)三つに分かれているというのに、それを無視して旧世代対新世代という区分けがなされ、その上その世代闘争さえ碌に行われないまま(重要なシングル対決の行われないまま)、うやむやに終わってしまったために、ファンを引き付けるチャンスを失ってしまったのである。このときの好機を取り逃がしてしまったため、苦労が後までずっと続くことになる。

 反面、セミ・ファイナル以下の試合、Jr.ヘビー級戦線は大変活況で、こちらが事実上のメインであったといってよい。ヘビー級クラスであれぐらいの闘いが行われていれば、新日は完全復活ができていたとわたしは思う。
 苦しくなるとドラマ的な――かつてどこもやらなかったような茶番劇的なキャラクターで盛り返そうという、ファンの意識に逆行した発想をいつの頃からか新日の誰かが持ち始めていたらしく、かつて高橋レフリーの阿部四郎化に勝るとも劣らぬお茶番――海賊亡霊やたけしプロレス軍団の登場などの失敗を重ね、果ては蹴撃事件による前田追放、飛竜革命の挫折などで、イメージがどんどんダウンして行く。
 また、ベイダーにあっさり負けるなど猪木の衰えも目立った。
 結局ソ連との提携で息を吹き返すまでは、新生U.W.F.と、天龍革命・明るく楽しいプロレスでファンの支持を集めつつあった全日に押されっぱなしであった。

 全日では、長州の抜けた穴を天龍と原の2人が埋めようとしていた。天龍革命とは、鶴田ら全日軍の相手コーナーに長州らの抜けた跡を埋めるだけのことではない。維新革命と天龍革命は似ているが違う所もある。初めは確かに、長州維新軍と同じ効果――鶴田ファンと天龍ファンの対立という新ヒール=ベビーフェイス・システムを新たにつくり上げた、かのように見えた。
 しかし、天龍がその革命の目的について言ったのは「天下取り」でも「下克上」でもなく、「全日マット活性化」という至極現実的なことだった。そして天龍同盟は初め1人で出発し、最大でも5人、今は4人に過ぎない。「マットを乗っ取る」意図など更々ない。「個人的野心」も口にしない。
 そしてそれが、ファンに伝わったのである。
 維新革命も初めは1人で始まった。しかしそれは計画やビジョンがあって始められたものではなかった。段々と所帯を大きくし発展して行ったのが維新革命であり、長州の発言はマスコミの煽り立てによって増幅された。
 それに対して天龍革命は、初めから天龍の意思が貫徹していた。そしてその天龍の意思は、ファンにストレートに伝わったのである。それを受け入れる意識がファンに既にできていたのである。

 天龍の目指すものは、気迫と力と真っ向勝負、激しいファイトであり、ベビーフェイスやヒールなどの演出を超え、その格闘の魅力でファンを堪能させるプロレスである。
 だから、その天龍の意図をわかったからこそ、天龍ファンは天龍が鶴田を打ちのめすときと同様、鶴田がこれまでに見せたことのなかった気迫を見せ、天龍に反撃したときもまた、喝采を贈ることをためらわないのである。天龍が鶴田を叩きのめせばよし、鶴田が奮起して鬼のような強さを見せて天龍を返り討ちにするのもよし。
 この考えは、U.W.F.の考え方にも通ずる。どちらが勝っても負けても、いい試合が見たい。
 ただファイト・スタイルの違いはある。U.W.F.はスポーツライクな、勝ちを最短距離でとりに行くスタイル。勝つためには地味な関節技や、非プロレス的なキックなどもこだわらずに使う。
 片や天龍は、プロレスらしさを大事にする。ロープを使ってのダイナミックな攻防、何よりも力――パワーを感じさせる思い切った攻撃と思い切った受け。レスラーの肉体と力を最大限に表現するファイト。

 そしてそれだけが、天龍同盟だけが全日を盛り立てたのではなかった。G馬場の楽しいプロレス。そしてこれもまた――馬場が第一線から退いているからだろうか――ヒール=ベビーフェイス・システムを超えている。誰も馬場と木村のどちらが――あるいは馬場・木村組と悪役商会のどちらが――あるいは馬場とブッチャーのどちらが勝つか、など気にしてはいない。レスラーの力ではなく、そのユニークな個性を表現するプロレス。勝負を超えたプロレス。

 しかし、今現在の全日は、状況はまたやや変わって来ている。天龍プロレスのはんちゅうにあった鶴田・谷津は楽しいプロレスのはんちゅうに飲み込まれつつある。天龍は再び孤高の闘いへと向かわざるを得ない、そんな状況になりつつあるようにも思える。


・U.W.F.について
・ 最後のヒール=ベビーフェイス・システム――異種格闘技戦
・ 新日とその今後


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注釈 2006.9.23

 このあきれるほど長い論文?の、記されたノートの次のページの(別の)書き込みに1989.10.27とあるので、本稿はそれ以前の脱稿である。最後の段落だけは後からの付け足しだったかもしれない。鶴田には「オー」、谷津には「オリャ」というコールが、何かにつけファンから浴びせられるようになっており、全日マットは天龍の焦慮が感じられる状況になってきていた。それが翌年の全日離脱、SWS旗揚げにつながったのかもしれない。

 その後に、今後書こうとしていた論文のテーマが3つ記されている。
 U.W.F.は、技術面はともかく、ファンが勝ちにこだわらない観戦スタイルを確立したという点で、全日本に共通していた。一方、かつては時代の最先端を独走していた新日は、当時古いスタイルから脱しきれず出遅れていたが、猪木の政界転進と三銃士らの登場により、ようやく曙光が見え始めていた。
 ファンが勝ちにこだわらなくなってきた時代に、それをさせるには、異種格闘技戦しかない。プロレスファンは無条件にレスラーを応援するし、内容が悪くても勝ちさえすれば喜ぶ。
 大体そういったことを、書きたかったのだろう、と思う。実際には書かなかった。

 天龍革命が示した方向に、天龍が抜けた後も全日マットは進み続け、90年代の「四天王プロレス」でそれは極点に達した、と思う。日本テレビの若林アナは、それを「ジャイアント馬場が慈しみ育てたプロレス」と呼んだ。大好きなフレーズである。