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プロレスとわたし 2002.6.2
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プロレスを通じて知り合った友人(新日ファン)に対する自己紹介文として書いたつもりが、長大になり過ぎ、出さずに終った。
今読むと文章がおかしいような所もあるが、そのまま転記する。 文中、(※…)は今(2007.12.15)入れた注釈。 T 1975〜1983 小・中学生 U 1984〜1990 高・大学生 V 1991〜1999 社会人 W 2000〜 |
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第T期は、ほぼ小中学生の時期に当たります。
TVに於いてプロレスを見始めたのは、幼稚園の終わり頃でしょうか? 日時のはっきりしている試合では、ワールド・リーグ戦(※新日本)における猪木−大木戦(大木のリングアウト勝ち)、猪木−ルスカの異種格闘技戦、オープン選手権における馬場−鶴田戦(何れも1975年)といった所が記憶に残っています。 と言っても全日本の方はあまり見ていず(「全員集合」を見ていたので)、おまけに仙台では放送されない期間もあった(ちなみに国際プロレスはテレビ東京になってからは全く放送されなかった)ので、新日も全日も毎週見るようになったのは1980年からだったと思います。 その年の秋には月刊ゴングを買うようになり、翌年秋のジャイアント・シリーズではプロレス初観戦を果たしました。 所は宮城県スポーツセンター、小中学生の立ち見で確か千円だったと思います。 セミはリック・フレアー対天龍。 NWA王者になったばかりのフレアーの日本初防衛戦にして天龍のNWA初挑戦試合。 通路に群がってNWAの黄金のベルトにタッチしたのがいい思い出です。 メインは馬場鶴田組にブロディ、スヌーカ組が挑戦したインター・タッグ選手権。 とても豪華でしょ? 当時は国際プロレスがつぶれて、残った2団体が激しい競争を始めた頃で、ファンもマスコミも両派に分かれてやり合っていた感じでした。 わたしが初めっから全日派だったのは、アメリカの強豪がバンバン来ていて華やかな感じが好きだったんです。 と言ってもこの頃は新日でもWWF系の大物が来ていて(バックランドとかダスティ・ローデスなんか)、良かったんですけど。 2回目の観戦は新日本で、ホーガンのパイソン(2の腕)に触ったのがやっぱりいい思い出です。 中学生の頃はそれほど回数行ってるわけではありませんでしたけれど、試合の前後、昼間から夜までウロウロしていて、ホテルまでサインもらいに行ったり、アンドレ・ザ・ジャイアントやディック・マードックが試合後宴会やっている店をこっそり覗いてばれたりと、1日中お祭り気分で楽しんでました。 当時はそんな「チビッ子」ファンが全国どこでもたくさんいたんではないでしょうか? 今と比べるとやはり地域的にも年代的にも幅広いファン層があったと思います。 第U期は、高校生・大学生で、やっぱり仙台の実家にいました。 変わったことは部活を始めてTV中継までに帰れないことが増えたので、親にねだってビデオ・デッキを買ってもらったことと、この頃から「週刊ファイト」を毎週買うようになったことです。 プロレスやゴングが月刊から週刊になったのもこの頃だったと思いますが、そちらはあまりわたしには影響はありませんでした。 ビデオは見られない時のための録画の他、名勝負の永久保存もしようとしましたが、そこで兄貴と意見が分かれて、兄貴はわりと簡単に数多く保存版にしようとするのに対し、わたしはそれではテープが山のようになってしまうから(今わたしの部屋はそうなっていますけど)、真の名勝負のみを厳選して保存すべきだと主張して、結果的にはわたしの意見が通ってしまったため、古いテープはそれほど多くは残っていませんし、保存状態が悪くてカビが生えたりしてます…残念ながら。 1992年頃からプロレス放送のほとんどがテープに残るようになったのですが、その事情は後で述べます。(※…と言っておいて、述べてません。) この頃のプロレス界は、長州らがジャパン・プロレスをつくって全日マットに上がり、外人スター路線だった全日本においてさえ日本人対決が主流になったこと、2大メジャーから全く独立した新団体ができたこと、そしてそれが格闘技色の強いUWFと、そのアンチテーゼとも言うべき何でもありのインディー団体・FMW、そしてレスラー以外がつくった初めての団体?企業プロレス・SWSであり、そこからどんどん新しい団体が派生して多団体時代へとつながる前段階だったこと、などが特筆すべき点だったと思います。 この時期の思い出としてはUWFを1度生観戦し、1度クローズド・サーキットで見た(映画のスクリーンでライブを見せる。アメリカではかつてよく行われていたがPPVに取って代わられた)こと、FMWを1度生観戦したこと。 あとWWFと全日本の対抗戦(日米レスリング・サミット)の特番を見るため(だけ)に福島まで行ったこと(仙台で放送がなかったため。どうせなら東京ドームまで行けば良かったんだが、財力を含め行動力が悲しいかなそこまでなかった)。 何れも1990年のことで、プロレス界に新しい時代が到来したと言って良いでしょう。 それに時期を合わせて?(ホントは単なるめぐり合わせ)わたしは翌1991年の春、大学を卒業して東京に出て来ました。 |
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第V期は、社会人として東京で過ごした時期ですが、1999年までで区切りとした理由は後述。
さて新日−全日の2大メジャー対立時代には「新日は真剣勝負で全日は八百長」と言わんばかりの態度だった新日ファン並びに関係者(木村健吾でさえ馬場さんをバカにしたりしてたのだぞ)が、UWFが出てきてから急に全日にすり寄り始めた印象があって、「プロレスは受けが基本」などと言い始めたぐらいなら「今頃わかったのかいキミたち」と大目に見てやる気持ちになれても、新日マットでNWA王座を復活させ、パンフに過去の王者として馬場さんの写真を載っけるに到っては正直驚いてしまった。 坂口が社長になり、猪木が議員になって会社を離れたからだとしても、ラッシャー木村の家に石を投げていた過激な新日ファンは一体どこに行ってしまったのか? ひょっとすると皆UWFへ行ってしまったのか? そのUWFもよくわからない理由で分裂してしまったが、UWFにもUFC(アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)にも全日ファンはあまり影響を受けなかったように思います。 あれ程関係の深かったアメリカ・マットとも(向こうの事情とも言えますが)交流がなくなり、国内においても多団体時代にあえて鎖国し、エンタメ・格闘技・デスマッチという3つの流行を排しひたすらに昔ながらの基本的なプロレスを純化して行った「全日プロレス」は、1994〜1998の間に1つの到達点(カードのマンネリと、危険性において)を極めてしまったと言えるでしょう。 他にも色々(お金のこと等)あったんでしょうけど、全日本が分裂した1つの要因は、そのスタイルに行き詰まりを感じて変えて行こうと考えた現場(三沢)と、そのまま続けさせようとしたフロント(元子さん)との対立にあったのではないでしょうか。 正直言ってNOAHの独立はすごいショックでしたし、三沢達には裏切られた気持ちがしてましたけど、今冷静になって考えれば仕方なかったのかなあと思いもします(それでも中にいたままで何とかならなかったのか、という思いも依然としてありますが)。 一方、3つの流行のそれぞれも、この10年で極点に達した感があります。 デスマッチは大仁田が死にかけて引退し、FMWがエンタメ路線に切り替えた時点で行く所まで行き終えたのではないでしょうか? 今なら大日本ですけど、わたしの感覚ではあれはもう行き過ぎている、と思います(つまり危険過ぎ)。 格闘技路線はU系諸団体が自分達でそれを極める前に、外からアルティメット、VTという形で結果(最終形)をいきなり見せられてしまったために、最も先に進んでいたパンクラスを除いて中途半端なものとして(残念ながら)淘汰されてしまったと言えるでしょう。 パンクラスは鈴木みのるが引退したらもうプロレスとは縁が切れて、修斗と変わらなくなってしまうでしょう。 エンタメはWWE風のテイストがようやく日本にも受け入れられるようになりました(先駆者FMWは残念ながらつぶれてしまいましたが、DDTや闘龍門は有望ですね)が、本家WWEではむしろ行き詰っていて純プロ回帰が始まっているのではないでしょうか? 以前と比べて試合内容が(日本人の好みから言って)良くなっているように思えます。
さてさて、新日本は?
新日本の特徴(長所になるか短所になるかはさておき)は、そのスタイルの幅広さにあると思います。 基本は「ストロング・スタイル」であるにせよ、異種格闘技戦があり、Jr.ヘビーやルチャの空中戦があり、軍団抗争があり、デスマッチがありと、ある意味インディー以上に「何でもあり」でした。 最後までアメリカ・メジャー(WCW)と交流していたのも新日本でした。 しかしながら、前述のようにそれぞれの路線でそれ専門に極めるまで達する団体がかたやあり、かつファンが(主にTV放送の深夜化により)マニア化して目が肥えている現状においては、それぞれがあるいは中途半端なものに見えてしまう恐れがあります。 ただし極点に達しなければ中途半端で良くない、と常に言い得るわけではなく、「行き過ぎ」と感じない「程好い」点がどこにあるかは人それぞれでしょう。(※今読むと、この文はない方が論旨が通りやすいようである。) 逆に言えばどんなスタイルを好むファンをも満足させ、他団体のファンをも取り込もうとするのは無理で、他団体と明確に違う所を出して行かなければ真にファンをつかむことができなくなっているのではないでしょうか? わたしはVTもWWEも見ますけど、「新日本ならVTもどきもWWEもどきも1ぺんに見られますよ」と言われたって、見る気にはとうていなりません…VTもWWEも、本物を見られないならともかく、今は見られちゃうのですから。 もっとも本物を新日本でやる、というなら別ですよ。 でもそこまでやらないでしょ? 本音を言っているのであるいは不快だったかもしれません。 しかし、NOAHが「全日プロレス」で純プロレスを極めつくしてしまって、そこから転換しようとしてなかなかできずにいるスタイルを、新日本はやろうと思ったらすぐにできちゃうように思えてなりません。 今はもうあれもこれもと欲張らずに、格闘技とはきっぱり一線を画して、といってデスマッチに走らず(道具に頼らず)、「プロレス」の枠の中で激しく闘い、ナンセンスに至らぬ程度にサイド・ストーリーを利用する。 映像、音響、舞台装置等でショウ・アップを計る。 団体内、仲間内だけの戦いに終始せず、広く他団体、あるいは外国の「プロレスラー」に相手を求める。(※外国人でも総合の選手にバイトさせるな、という趣旨で鍵括弧付で「プロレスラー」と書いた。) 毎週地上波のTV放送があり、財力もあり、人材も揃っており、各方面にコネクションもある。 やはり(正直ちょっと残念なんですけど)、それが(より良く)できるのはNOAHではなく、全日本でもなく、もちろんZERO-ONEでもない。 新日本だと思います。 K-1やPRIDEを敵と考え、勝負しようとするのは間違いで、真の敵はWWEだと思います。 早くプロレスに専念してほしい。 でないと、WWEが純プロに回帰したら新日本のつけ入るスキはなくなってしまうでしょう。 一般論ばかりになりましたが、個人的なことを言えば、東京に来て観戦する機会が飛躍的に増えたし、特に各団体のビッグマッチを生で見られるようになって、(TVは深夜になってしまったけど)とてもうれしい時期でした。 全日が分裂した1999年で区切りを付けましたが、その結果一時的に冷め、観戦は減ってしまったんですけど、2000年からはケーブルTVに加入して、今まで見ていなかったWWFなどを見られるようになってプロレスに費やす時間が逆に増え、2001年には関西に転勤して(※自分にとって)新しい会場での観戦もでき、自分の中では新しい時期になったと思っている現在の第W期です。 個人的には四天王時代の全日プロレスが最高だったと思っているんですけど、同じメンバーだけでやっていた(やらざるを得なかった、他人が入ると質が保てなくて)ため臨界点に達してしまったのは事実です。 繰り返しになるかもしれませんが、三沢達が新しい方向を目指そうとしたのも(今では)仕方ないかなと思ってます。 メニューページ「研究・手紙・投稿」へ戻る |