2008.10.12(日)和歌山城


写真トップ・左は、表坂登り口付近の高石垣。
写真トップ・右は、御橋廊下。
写真左は、追廻門。


 前日は大和郡山城に登城後、堺に宿泊。

 堺東10:42→南海・泉北交通(準急・和泉中央行)→10:44三国ヶ丘→JR阪和線(普通)→和泉府中11:05→(快速・日根野行)→日根野11:33→(紀州路快速・和歌山行)→11:58和歌山
 通しで¥980

 南海で1駅だけ乗って、三国ヶ丘でJR阪和線に乗り換え。
 乗り換えには1〜2分しかかかっていないと思われる。
 普通なので遅い。
 和泉府中で、後続に抜かれると言うので、快速に乗り換えたが、日根野止まり。
 結局待ち時間も含めて1時間以上かかった。
 日根野の先は山道になり、長いトンネルを抜ける。
 国境がどこかははっきりわからないが、次の駅はもう紀州であった。
 和歌山駅は大きく、和歌山は大都会である。
 駅前にロータリーがあり、ちょうどバスが来るらしいので、待って乗った。
 (元々は歩くつもりであったが。)
 
 和歌山駅前12:10→12:16公園前 ¥220

 バス停のすぐ前に「一の橋」があり、堀を渡って大手門へ入る。
 このお城は石垣が多く、よく残っている。
 しかも、制作年代に応じて、緑泥片岩(青石)、和泉砂岩、花崗岩と一目で異なる色の石を使っており、一番古い緑泥片岩の石垣は表面をきれいに加工しない、ごつごつしたままを使った「野面積み」で、粗野で荒々しい。
 歩く内に石垣の色や形が変わっていくのが面白い。

※ ここらの記述は「日本の名城 西日本編」(学研M文庫)の受け売り。
 なお、和歌山城も豊臣秀吉の弟・大和大納言秀長が創建によるが、自身は(昨日行った)大和郡山城にあって城代を置いた(桑山氏)。
 関ヶ原ののち浅野氏、のち御三家の1つ紀伊徳川家の居城となった。

 本丸へ登る石畳(表坂登り口)を登る前に、重文の「岡口門」を見る。
 (これと「追廻門」以外は再建である。)
 門と門上の多聞、門を左右に挟む石垣が残るが、石垣上の櫓は残念ながらない。
 看板及び天守内の展示室にあった記述をメモした。


岡口門 重文
 1600浅野幸長入国後大手門(表門)として創建されたが1619徳川頼宣入国と共に大手門を「一の橋口」に改めたため1621搦手門(裏門)として改修された。
 北に接する土塀も当時のもの。
 一枚岩をくり抜いた珍しいもの。

 1871廃城に際して左右にあった櫓と御蔵が取り払われている。


 戻って、本丸への道を登る。
 登り切ってもすぐ本丸ではない。
 更に本丸の石垣を仰ぎ見つつ、「松の丸」と呼ばれる細長い郭を進む。
 見下ろす下(南の丸)は、動物園になっている(無料らしい)。
 小田原城も動物園が城内にあった。
 あそこは本丸にゾウがいた。
 上に登ると石垣は青石の野面積みばかりになる。
 木々が茂り暗い。
 再び石段を登る。
 右に行けば本丸御殿、左に行けば天守郭。
 天守はもうその威容を現している。
 本丸御殿も更に急な階段を登らねばならない。
 もっとも登っても今は入れない。
 以下は看板より。


本丸御殿跡
 市内小倉光恩寺の庫裏(御殿の御台所)が現存唯一の建造物。
 大正12(1923)上水道貯水池が設置され現在に至っている。
 1863.3.10〜翌10.26まで14代藩主茂承(もちつぐ)公夫人(倫宮則子(みちのみやのりこ))が住まわれ、「宮様御殿」とも呼ばれた。
 ここに正室が住まわれたのは始祖頼宣公以来のこと。


 天守郭へ向かう。
 入り口(ニの門=楠門)に向かって一区画あるが、今は売店とトイレがある。
 この先から有料で、350円払って楠門へ登り、くぐると中に大小天守、櫓などに囲まれた小さいスペースがある。
 以下は看板より。


 大天守 小天守 乾櫓 ニの門櫓 楠門を多聞によって連結させた連立式天守閣。


 小天守から建物に入る。
 鉄筋コンクリート建てで、中は現代風。
 展示室になっている。
 展示物は書画刀槍などだが、なかなか興味深いものがあった。
 それは後で述べる。
 大天守の最上階からは、外界の眺望もよい(海まで見える)が、天守郭の他の櫓なども見下ろせ面白い眺めであった。
 本丸御殿の所を見ると、木々が茂った小山であった。
 天守、櫓は多聞で結ばれていて、中を歩いてぐるっと一周できる。
 下りて、売店で食べ物を買おうと思ったが、肉まんやホットドッグはないのでソフトクリームを買って食べながら歩く。
 天守郭の周りは帯郭というか細い道でぐるりと一周できるようになっていて、道々各櫓を真下から見上げることができる。
 その外側は急ながけのようになっていて、木々が生い茂り下りられるような感じはしない。
 一箇所、道がついているような所があったが、先がどうなっているかわからないので怖くて下りなかった。
 多聞の真ん中に出入り口があって、裏口らしかったが締め切られていた。
 売店のある広場から、「新裏坂登り口」という石段の道を下りると、護国神社があった。
 そこは素通りして、北の方へ回り、「追廻門」へ。
 以下は看板他より。


追廻門
 1629創建と伝えられる。
 馬場への通路にあたり馬を追廻したことに由来。
 解体修理で朱塗りの門であったことが判明。
 裏鬼門にあたるため、鬼門除けとして朱色に塗られたと考えられている。


 更に北へ。
 「砂の丸広場」という所では、市民がスポーツを楽しんでいる。
 右(東)へ。
 旧西の丸。
 「紅葉渓庭園」という中々のお庭がある。
 「御橋廊下」というものを通って、堀を越え二の丸広場へ。
 「御橋廊下」は、藩主が西の丸と二の丸を行き来するための屋根、壁付きの橋で、二の丸が高いため斜めになっている。
 中を歩くと、床板が階段のように段違いに張ってあって足が痛いのだが、まっ平らに張ると、西の丸の方まで滑って行ってしまうかららしい。
 (ドリフのコントのようになってしまうのだろう。)
 二の丸へ出ると、「御橋廊下」の両脇は低い石垣になっているのだが、その中に隠し部屋があったらしい。


穴蔵状遺構
 発掘調査により、石垣に組み込まれた形で穴蔵状の遺構が発見されました。
 床面は、入口から約2/3の広さで瓦製の塼(せん)が四半敷(ひし形に目地のある敷き方)され、奥側約1/3は盛土され、土堤状となっていました。
 なにか特定のものを収納する施設であったと考えられます。
 江戸期でも大奥付近に石室(いしむろ)と呼ばれる施設があり、非常の際大奥用の調度などが納められたところと考えられています。
 なお、穴蔵状遺構は、明暦元年(1655)の火災以降、入り口が閉ざされ埋め立てが行なわれています。
 御橋廊下が架かっていた時期には利用されていなかったと思われます。


 「四半敷」(しはんじき)とはタイルのような感じで、実物を見ても江戸期のものとは思えない。
 ずっと埋もれていて痛んでいない、ということもあるのだろうが。
 二の丸広場から大手門へ行けばぐるっと一周したことになるが、また西へ戻る。
 「裏坂登り口」と言う(わたしにとっては)第三の本丸・天守への登り口があったが、膝が痛く「急」ともあったので断念。
 「御橋廊下」を外から見ながら、西へ戻り、西北から場外へ。
 ここには門はない。

 お城のパンフの他に「和歌山城と周辺」と言うのももらっていた。
 これには現在の和歌山の地図上に、歴史上のチェックポイントが記してある。
 そこに行くと、今は何もない所でも碑が立っていて、説明書きが少しある。
 紀州五十万石を誇り、歴史を大事にする行政の姿勢が感じられる。
 「市堀川」と言ういかにも人工的な流路の川(堀?)に沿って歩く。
 水は濁って汚い。
 水際まで建物が立ち並び、中には古い家もある。
 南海の「和歌山市駅」も、大きくて立派である。
 和歌山は、歴史があって、今も栄える大都市であった。

 次は、岸和田城へ。
 
 南海本線 和歌山市15:45→?泉佐野16:31→16:41蛸地蔵 ¥620


和歌山城之図

**         **北堀***一の橋*
*     西の丸 *         大手門*
西     広  場 *  ニの丸     ↓ *
堀   紅葉渓 御橋廊下         ↓ *
*   庭  園  ** 裏         ↓ 東
 砂の丸 山 林     坂        ↓ 堀
 広  場  天守郭   本丸御殿    表 *
追廻門  売店・トイレ← →(給水場)  坂 *
     新裏坂    ↑←←松の丸←   **
    護国神社  南の丸(動物園)  岡口門*



 以下は、和歌山城大天守内展示についてのメモ。


徳川吉宗黒印状

 為重陽之祝儀
 小袖一重到来
 歓思召候猶
 水野和泉守可
 申候也
  九月七日(黒印)
     相良近江守殿


 1717〜1721に出したと考えられる。
 11代将軍徳川家斉のものもある。


家斉書状

 為端午之祝儀
 帷子単物到来
 歓思召候猶
 水野出羽守可
 申候也
  五月ニ日(黒印)
     相良壱岐守殿

(相良は肥後熊本人吉の外様大名)


 黒印は丸に「吉宗」「家斉」という二文字があるだけだが、デザインが斬新で面白い。
 10代紀州藩主治宝(はるとみ)の礼状は、黒印ではなく花押。


徳川治宝書状

 為年甫之嘉儀
 来礼之趣怡悦之
 事候恐々謹言
   紀伊中納言
 二月廿八日 治宝(花押)
 高木修理殿


紀州藩家老 三浦為隆(ためたか)1659〜1732
宣旨  延宝6年12月28日

 平朝臣為隆
 右可従五位下
 (印)(日付)
  中務卿 欠
  正四位下行中務大輔臣源朝臣資? 宣
  正四位下行中務少輔臣藤原朝臣祐宣 奉行
   :
   :
 制書如右請奉
 制附外施行謹言
 (文字上に印)
 (日付)
 制可
  ―――――
     右中弁 国豊
 関白従一位朝臣
 太政大臣  欠
  :
  :
 告従五位下平朝臣為隆
 制書如右符到奉行
  兵部少輔 ?


(「:」とした所には延々と役職者名が並ぶ。)

 宣旨は「写し」とないから原本か?
 詳しくは知らないが、それぞれの官職にある者がそれぞれの役割を果たした旨を、1枚の同じ巻紙に書き記したので長くなるのであろう。
 それにしても名前を書き過ぎてある。
 本当にこれらの人が全て関わらなければ決裁にならないのであろうか。
 人名が多いほどありがたいと思って必要でないのに書いているのではないか。
 

銀札 壱匁(ぎんさつ いちもんめ) 元禄15(1702)
 現在の紙幣にあたる。
 紀州藩が発行した藩札で、領外の大和、河内、和泉、摂津、播磨の五カ国に通用させた。


 藩札を広く藩外に流通させるとは、さすが御三家…と言っていいのであろうか。
 他にもこういう例はあるのだろうか。




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