2008.8.30(土) 白河(2)小峰城


写真トップ・左は、三重櫓と前御門。
写真トップ・右は、台上から前御門を見下ろす。
写真左は、台上から見た三重櫓。


 遅い夏休みで東京から仙台に帰省する際、福島県の白河で途中下車して遊んだ。
 第二の目的地は「小峰城」である。

 電車が白河駅に近づくと、北側に御三階櫓と石垣が見える。
 しかし、駅の改札は南側に向いており、お城に行くには線路の下をくぐらねばならない。
 もっともその通路はすぐそばで、お城までもごく近い。
 長塀の脇をずっと歩く。
 塀の向こうは城山公園である。
 堀があり、高石垣がある。
 石段を登り、前御門(表御門)を抜けると、本丸址である。
 今は青々とした芝生になっている。
 更に石段を登ると、御三階櫓に行き着く。
 江戸幕府をはばかってそう呼んでいたが、事実上の天守であろう。
 中に入ることができる。
 前御門もそうだが、平成の再建である。
 もっとも図面に従い、古の工法で作られたもので、柱は釘を使わずに組んであるし、はしごは急で登るに怖い。
 最上階も窓の狭い隙間から覗く眺めは悪いのである。
 昭和年間は、外観ばかりまねて中は現代建築に過ぎない再建が多かった。
 再建ならば新しいほど、実は古の趣きが感じられてよいのである。
 資材は近隣の老杉などを使ったが、戊辰戦争時の弾痕があったりでこれもまた趣き深い。


写真は本丸の高石垣。

 二の丸址まで下りる。
 本丸の石垣は古来のもの。
 所により崩れそうな、はらみが生じている所もある。
 積み掛けのような、あるいは解体の途中のような石垣もあるがこれは何なのだろう。
 見飽きることのない、すばらしい城址であろう。

 二の丸址に「白河集古苑」という博物館があり、入った。
 大きくはないがすばらしい展示であった。
 中世の支配者・結城家に関する「結城家古文書館」と、近世の領主・阿部家にまつわる「阿部家名品館」とがあった。
 白河結城家は倒幕に功あり、建武政権の奥州府より「仙道八郡庄保検断職」に任ぜられ、南北朝時代には北朝方に転じ、勢力を誇った由。
 「郡」の他に「庄」「保」という行政区画があったことを初めて知った。
 白河結城家は豊臣秀吉に所領を没収され、江戸時代には主に徳川譜代の大名が代わる代わる城主・藩主を勤めた。
 特に阿部家は江戸幕府老中を何人も出した名家。
 展示物も興味深いものが多かった。
 

徳川家慶 領地判物  阿部正家宛(複製)天保十年 1839
 
 将軍代替わりに伴い発給された 白河藩十万石を安堵した領地判物。
 日付の下に花押。
 十万石以上の大名には判物、それ以下の大名には朱印状が発給された由。


同人宛 領地目録(複製)
 
 寺社奉行 牧野忠雅 本多康禎の連署。

 目録
  陸奥国
   白河郡之内 四拾四箇村
    高 二万千弐百拾弐石
   石川郡之内 拾五箇村
   (以下は村数のみメモした)
   岩瀬郡 33箇村
   伊達郡 15箇村
   信夫郡  2箇村
  出羽国村山郡 23箇村
   (総合計 132箇村)


位記   阿部正外(まさとう)宛 叙従五位ノ下 安政六年 1859

口宣案  同人宛 任侍従 元治元年 1864

 口宣案(くぜんあん)が口頭で伝達する事項を文書として発行した位の文書であるのに対して、位記は公文書であり、天皇御璽が据えられている。
 (口宣案の)紙面が薄墨色なのは、不要となった文書を漉き返して再利用した紙を用いる慣習だったため。
 (時代が下ると白い紙に着色するようになった)


阿部正外老中就任誓詞 元治元年 1864
 
 老中就任時に誓詞を提出する慣わしであった。
 「複製」となかったので現物らしい。


 もっとじっくり見てメモも取りたかったのだが、時間がないのが残念であった。
 白河駅前からタクシーに乗って新白河駅へ行き、15:50の新幹線に滑り込んだ。
 仙台着は16:48であった。


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