文献に見る加藤九段の食事2007.1.6


子供の頃、新聞の将棋欄の切抜きや、テレビ
棋戦の棋譜・講座のメモなどをスクラップして
いました。今2冊だけ残っています。正月休み
で帰省した折に、以下の情報を発見。(敬称略)

第19期十段戦七番勝負 中原十段対加藤九段

第1局 1980.11.6、7 東京・千駄ヶ谷「玉荘」
         加藤      中原
初 日 昼食 天ぷらごはん (記載なし)
二日目 昼食 天ぷらごはん 天ぷらごはん
     夕食 天ぷらごはん お刺身と雑炊*
*注文は天ぷらごはんだったが、昼にも食べた
のでやめ、記録係の鈴木英春三段と交換。

第2局 11.18、19 神奈川県鶴巻温泉「陣屋」
二日目の夕食は各自の部屋で取るのが普通だが、
この時は会食。食事中、中原に絶妙手があるの
に気付き、無作法なことを絶対しない加藤が、
2杯目か3杯目かのごはんを半分以上残して
席を立った。加藤、この番勝負唯一の敗局。

第3局 11.27、28 神奈川県箱根強羅「石場亭」
         加藤   中原
初 日 昼食 うなどん 天ぷらうどん

第4局 12.4、5 栃木県川治温泉「一柳閣本館」
         加藤   中原
初 日 昼食 うなどん 天ぷらとざるそば2枚
              (2枚目はほとんど残す)
二日目    加藤、暖房のスイッチを切る。
        中原、しばらくして「寒いね」
       →中原の脇に電気ストーブを設置
    夕食 また会食。エレベーターでは一緒
        だったはずなのに一行が席に着く
        と加藤は既に食べ始めていた。

第5局 12.18、19 静岡県熱海市「美晴館」
このときの二日目の夕食も会食だったようだ。
既に優劣が明らかになっていた(結果は加藤
勝ち十段奪取)ため「一同しんみりむっつり」

観戦記者は第2局が山帰来、他は陣太鼓。
.

ほかに、手元にある文献からも以下のような
エピソードが見られます。


『将棋名勝負の全秘話全実話』講談社+α文庫
 著者の山田史生さんは元読売の記者。

1981の十段戦、昼食休憩が終わり対局再開後
すぐ、ケーキ・りんご・ホットミルクを注文。
対して挑戦者・米長はお盆に山盛りのみかん。

食べ物のこと以外でも
「波の音が気になると宿泊の部屋を変えた
 加藤一二三九段」
「規約を変えた加藤一二三九段の大長考封じ手」
「十段戦を前に協会でお祈りをする敬虔な
 クリスチャン」
等の項(原文見出しより)で言及があります。
また、
「プロローグ 羽生善治竜王大いに語る
 本当に力のある、息の長い棋士に」の章で、
羽生竜王(当時)は今後の目標を聞かれて、
加藤先生は61歳でA級を保っておられた、
私も本当に力を持った息の長い棋士になりたい、
と答えており、その言葉がそのままこの章の
サブタイトルになっています。

(私見ですが、加藤先生と羽生三冠は、同じ
天才として互いに尊敬と親近感を抱いている
ように思えるのですがいかがでしょうか。)


『昭和将棋風雲録 名棋士名勝負物語』講談社
 倉島竹二郎さんは観戦記者として毎日で活躍。

1985年発行の本ですが、連盟での対局時、昼は
ウナ重、夜は天ぷらと決まっているのに、塾生に
メニューを聞かれると長考する、とあります。

そのほかにも、
名人を奪取した対局で「ウヒョー」と奇声を発した。
名人になって別人のように陽気になった。
タイトル戦で川の音がうるさいといって、離れの
結婚式場の大広間に一人で寝た(秩父の美山荘)。
などの記述があります。


『第三十二期将棋名人戦 全記録』朝日ソノラマ
 中原名人が加藤八段に4−0で名人位初防衛。
 当時は朝日新聞が主催でした。

第2局1973.4.19、20 米子・皆生温泉「幸楽園」
初日の昼食、中原名人の注文は名産のそばでしたが、
加藤八段は中華そばで、連盟で対局するときと同じ、
とあります。
(「中華そば時代」もあったのでしょうか?)

なお、第4局で加藤先生は「負けましたですね」と
投了を告げています(1973.5.11)。
その言葉をもってこの期の名人戦は終了しました。
.

補遺(2007.5.26)

『将棋界の事件簿』毎日コミュニケーションズ
 著者の田丸昇八段が、奨励会員だった昭和40年代の
「記録席から見た棋士たち」として、加藤先生について
「昼食はラーメン、夕食はウナギなど、油っこい食事を好んだのは今と同じ」
と書いています。
 中華そば時代は、どうやらあったようです。
「ちなみに大山も天ぷら、ウナギなどのスタミナ食を好んだ」
ともあります。
 あるいは、加藤先生の食事の傾向には、大山十五世名人の影響もあったのでしょうか。

 升田実力制第四代名人については、次の記述があります。
「食の細い升田はモリソバが多く、時には生卵3個だけ」
 他の本からは、次のようなことがわかりました。
 終戦直後に行われた順位戦、食糧事情が悪く、皆が日の丸弁当なのに対し、升田八段(当時)だけは、朝日新聞差し入れの折詰めのご馳走だった。
(前記『昭和将棋風雲録 名棋士名勝負物語』)
 一方、戦時中は、出征したポナペ島で、木の根や草の実、トカゲを食べて生き延びた。
 有名な木村十四世名人との「ゴミハエ」論争も、豆腐は絹ごし、木綿ごしのどちらがいいかがそもそもの発端。
(『升田幸三物語』東公平著、角川文庫)


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