血


(WWDプロレス観戦日記 オリジナル小説です。)

 妻が交通事故に遭って病院に担ぎ込まれた。
 医者が夫に向かって言った。
「輸血は急を要します。奥さんの血液型を教えて下さい」
「B型です」
 夫は答えてから、果たして本当にそうだろうかと考え直した。
 妻は元々O型であると自称していた。
 が、改めて検査してB型とわかったのだった。
 夫はその再検査がいつ行われたのかを思い出した。
 それは病院へ娘の血液検査をしに行ったときだった。
「親子ともB型でした」
 帰って来た妻は、夫の問いにそう答えた。
 夫は、君はO型だったんじゃないか、と言った。
「美智子がB型だったものですから、わたしも検査してもらったんです。そうしたらわたしもB型でした」
 ああそうか、と夫は言ったものの、妻の言うことがよくはわかっていなかった。
「A型やB型の人が間違ってO型と診断されることは多いのだそうです。あなたも診てもらったら?」
 そのとき初めて夫は、共にO型の両親からB型の子が生まれるはずはないことに気付いた。
 そうかそれで妻は検査してもらったのだなと思った。
 そしてそれ以上のことは何も思わなかった。
 それが15年後の今になって、ようやく彼の胸に疑念が浮かんだのである。
 妻は本当にB型なのであろうか。
 もしO型だとしたら、何故うそをついたのだろうか。
 彼の頭に一人の男の顔が浮かんだ。
 この20年間会ったことはなかったが、20年間一度も忘れたことのない男の顔であった。
 彼と妻の間に子供ができたのは彼らの結婚の後ではなく前のことであった。
「あの男にも機会があったかもしれない」
 彼はそう考えた。
「本当にB型ですね」
「ええ」
 夫は医者の念を押す言葉にほとんど反射的に答えた。
 医者は走るようにしてそこを立ち去った。
 夫は深く考えずにした返事を後悔しながらも、そうしたことを自分自身に納得させようとしていた。
 自分は妻を信じている。
 だから、彼女がB型であることも信ずるべきなのだ。
 そしてもし、彼女がB型でなかったとすれば…彼女は自らの虚偽の報いを受ければよいのだ。


 それでも結局、彼は医者を追いかけた。
 長い廊下の途中で彼は医者にもしかするとO型だったかもしれない、と言った。
「血液検査の結果が出るまでは必要量だけO型の血液を輸血しましょう。
 B型であれば無論B型を輸血するのが望ましいですがO型の輸血も危険ではありませんから。
 O型の人にB型の血液を輸血するのは大変危険です」
 医者は言った。
 夫はほっとしながら娘の待つ部屋へ戻った。
 夫として妻を許せぬとしても、父としてはこの子の母を許してやらねばならぬ。
 彼は娘の顔を見ながら思った。
 結局廊下で話をしたことはこの子のために良かったのだ。
 この子だって両親が共にO型ではおかしいことに気付くだろう。
 彼の娘に対する愛情は変わらなかったし、それはあくまでも娘に対する父親のものであった。
 隣に座る娘よりも一つ余計な心配を抱えながら夫は待った。
 やがて医者が再び現れた。
「輸血用の血液が足りません。お二人の内どちらかが奥さんと同じ血液型ならば輸血にご協力願いたい」
 夫は廊下へ医者を連れ出そうかと考えた。
 が、そうした所で何になるものではないとすぐ気付いた。
 わたしはO型、娘はB型です、と彼は答え、そして運命の裁きを待った。
.


 医者は夫から娘の方へ視線を移した。
「ではお嬢さん、よろしいですね?」
 夫は喜んだ。
 それから自責の念に囚われた。
「念のためにわたしの血も調べてみて下さい。そしてもしもB型だったら」
 夫は言った。
「わたしが死んでもいいですから妻を助けてやって下さい」
「それは医者としてできませんよ…が検査はします。行きましょう」

 残念ながら彼はやはりO型だった。
 しかし妻は娘からの輸血を受けて命をとりとめ、やがてすっかり良くなった。
 妻が退院して家へ帰った最初の夜、夫は自分が不当な疑念を抱いたことを打ち明けた。
 そして詫びた。
 妻は謝るべきはわたしの方です、とだけ言った。
 後は泣くだけだった。
 そこで夫は彼女も15年前、娘と自分の血液検査の間不安や自責の念にかられたのではないかと想像した。
 彼は潔癖な人間だった。
 しかし20年という歳月は余りに長く、またその間に彼らの娘は余りにも愛らしく育ち過ぎた。
 結局彼らは仲の良い夫婦に戻り、その後幸せに暮らした。
 そう言い得る以上彼らの娘もまた幸せだったことは言うまでもない。


(2007.12.16 UP)

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