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2008.10.12(日)岸和田城
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写真トップは、二の丸の石垣と掘。
左、石垣上は心技館。右、ハスの葉で覆われた堀。 写真左は、夕陽を浴びる本丸の隅櫓。 和歌山城の見学を終え、南海・和歌山市駅に着いた時は既に15時半になろうとしていた。 岸和田城は蛸地蔵駅、とガイドブックにあったので、15:30の特急に乗らなかった(飛び乗れば乗れた)が、次の普通電車は15分先であった。 おなかが減ったので、駅構内のコンビニに入ったら、柿の葉ずし(850円)があったので買った。 2人いる店員が2人とも美少女で驚いた。 はるばると来て竜宮城を発見した思いであった。 ホームで半分ぐらい食べて、電車に乗った。 普通は止まる駅が一杯あって遅い。 泉佐野で10分くらい待ち合わせがあって、その間に残りの柿の葉ずしを食べた。 JRより海沿いにある南海電車には長いトンネルはない。 先にいい所に南海が線路を引いちゃったのだろうか。 南海本線 和歌山市15:45→?泉佐野16:31→16:41蛸地蔵 ¥620 ガイドブックによると「入城は16時まで」で、全然だめであった。 電車から左前方を見ていると、ちらと天守が見えた。 で、方向はわかっていたし、看板もあったので、迷わず行けた。 広い堀に囲まれて、高々と石垣が組まれている。 思っていたよりも大きく、立派なものであった。 史実によらない再建、と聞いていたが、それは天守だけの話であろうか。 建物は再建でも、石垣は元のまま(組み直すなど修復はしても)、という所は多い。 もっとも石垣のうち明らかに色や形が違う(白くてきれいな形)所があり、それは石から今のものかもしれない。 だとするとかなり大規模な手の加え様である。 本丸址はぐるりと掘に囲まれている。 その回りを一周する。 堀に釣り糸を垂れる人々。 よそでは見ない光景である。 本丸はぐるりと石垣に囲まれ、その上を隅櫓と多聞櫓(あるいは塀)が回っている。 天守はその中に独立して立っているようだ。 正面の門からは裏手に当たる面に、石垣の間から下りる石段がついている。 しかし、そこから先にはどこにも行けそうにない。 堀との間にごくごく狭いスペースがあって、それがぐるりと石垣を回っているようだ(石垣のすそに、一筋ほどの道が、堀との間をめぐっている、と言えばいいだろうか?)。 しかしそこを歩いても、とにかく堀を渡るすべがない。 かつてはどこかに船着き場があったのだろうか? 不思議なつくりである。 唯一の堀を越える道は、その反対側にある。 橋ではなく、堀を割って地続きの道がある。 17時が来て、客が出ると門は閉められてしまった。 中に入れなかったので、どうなっているかはわからない。 ひたすら周りを回って見るだけである。 日も暮れかけてきた。 (以下は看板より。) |
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岸和田城の変遷
建武元年(1334年)楠正成の一族和田氏が、当時「岸」と呼ばれていたこの地に城を築き、根拠地としたことから「岸の和田氏」と呼ばれ、「岸和田」の地名の起こりとなったと言われています。 その後、信濃氏、細川氏、三好氏、松浦氏、中林氏、小出氏、松平氏とかわり、寛永17年(1640年)岡部宣勝が入場、以来13代続き明治を迎えました。 岸和田城の別称は「猪伏山(いぶせやま)ちぎり城」。 「ちぎり」とは、機(はた)のたて糸を巻く器具で、本丸と二の丸を連ねた形が「ちぎり」に似ているところから由来すると言われています。 また、城は「千亀利城」「蟄亀利城」とも書かれます。 文政10年(1827年)、雷火により五層の天守閣が焼失。 昭和29年(1954年)、その跡に三層の天守閣が復興されました。 城跡は昭和18年(1943年)に、大阪府の史跡として指定されました。
本丸へ渡ろうとする所が二の丸跡であった。
その周りにも堀があった。 大きな建物があったが、入り口には「心技館」とあった。 柔剣道場だろうか。 二の丸跡は小さな公園で、なぜかサルのいる檻がある。 「二の丸多聞」と書かれた、隅櫓風の建物はトイレであった。 なんだかかえってがっかりする。 堀はハスの葉で一杯であった。 かなり暗くなって来たので、来た道を戻って蛸地蔵駅へ。 17:56発の普通、岸和田で特急に乗り換え。 堺は18:17着。 特急は「サザン」と言って、一部座席指定。 8両中前4両が自由、後は指定(別料金が発生)。 他には全席指定の特急と、全席自由の特急がある由。 堺駅前→堺東駅前(宿泊地)へは、南海バスで¥210で行ける。 |
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岸和田城之図
********* * * * 本 * * 丸 * * * * 門 * **** **** *トイレ * * 猿 *心技館 ********* メニューページ「近畿・お城ウォッチ」へ戻る |