柔道家の他流試合興行は明治時代から

 

 

柔道対プロレス

 

今や有名となっている前田光世(コンデ・コマ)の他にも、多くの柔道家・柔術家が、

海外普及や武者修行のため国際的に活躍した。

プロレスラーと他流試合を行った者も多い。

日本人プロレスラー第一号は、明治17(1884)年、元相撲取りの荒竹(ソラキチ・マツダ)

と言われるが、その後は柔道家・柔術家の参戦記録が多い。

講道館の伊藤徳五郎が明治42(1909)年12月、ハワイでブラウンと闘った記事がある。

(「朝日新聞100年の記事によるスポーツ人物誌」P59。

小田切毅一さんのサイト「スポーツ・レク文化資料情報館」

http://www.eonet.ne.jp/~otagiri/index.html

の「書庫明治8」●878

  http://www.eonet.ne.jp/~otagiri/new_page_25.htm

で読むことができる。なお荒竹の記事は●938。)

伊藤はのち講道館に殴り込みをかけるアド・サンテルとも闘っている。

1902年、シアトルで初代世界王者フランク・ゴッチに日本人キング・ロー(正体不明)が挑戦。

1905年、NYでジョージ・ボスナーと日本人柔術家・東勝熊が対戦。

講道館の前田光世(コンデ・コマ)は、1904年から世界中で柔道の普及と他流試合を行った。

ハバナではイワン・プドウブニーを破っている。

最後はブラジルに永住。

門下からグレイシー柔術が生まれる。

不遷流の三宅太郎(メケ・ミヤケ)は1910年、ロンドンでグレート・ガマと対戦。

その後プロレスラーに転向し、20年以上活躍した。

その技術は沖識名を経て日本プロレスにも伝わる。

 

大正10(1921)年、アド・サンテルが弟子のヘンリー・ウェーバーを連れて来日。

挑戦された講道館は、嘉納師範が試合を拒否したが、系列の弘誠館が受けてたった。

東京・九段の靖国神社相撲場で3月5、6日有料の観客の前で行われた試合は、双方

着衣、20分1ラウンドの3本勝負。

ギブアップをとったら勝ち。

サンテルは初日・永田礼次郎、二日目・庄司彦雄にともに引き分けた。

ウェーバーは増田宗太郎に引き分け、清水一に負け。

禁を破った庄司らは講道館を破門されたが、のち許された。

庄司はのち渡米留学してレスリングを学び、早大柔道部の後輩である八田一朗と協力して

日本のアマチュア・レスリング創設に尽力した。

サンテルはのちルー・テーズにバック・ドロップを指導した、と言われる。

 

  海外における柔道家の他流試合

こちらのページで前田光世や東勝熊の試合の記事を翻訳しています。

よろしければご一読ください。

柔道対ボクシング(柔拳試合)

 

明治42(1909)5月、新富座(東京)における佐藤伝三(二段)対マホネー(米人水兵)戦、

昆野(こんの)対アボット戦の記録が残っている。

(前述のサイト「書庫明治8」●877)

また、講道館を開いた嘉納治五郎の甥の嘉納健治が、横浜で見た柔拳試合に興味を持ち、

明治42(1909)年、神戸に「国際柔拳倶楽部」を設立。

興行も行われた、と2006年6月3日の朝日新聞の記事にあった。

(朝日.COMの記事はもう消されているが、こちらのサイトで読める。

 http://www.shinkaichi.or.jp/whatsnew/detail.html?row_no=212

なおこれはのちに「大日本拳闘会」というボクシングジムになったとのことで、日本での

ボクシングの普及に、柔拳試合の貢献があったと認めてよいのかもしれない。

 

柔拳試合は日本人柔道家と外国人ボクサーとの間の異種格闘技戦が基本形のようである。

ボクサーは、日本に寄港した外国船の水兵・船員の小遣い稼ぎか。

柔道家の方も、講道館が大っぴらにこの手の試合を認めそうもなく(アド・サンテル殴り込み

の項参照)、正統な人は出なかったのではないか。

 

戦後、中村守恵氏(のち日本女子プロレスの社長)により、柔拳試合が復活。

プロ転向後の木村政彦が興行に参加したこともあったという。

ユセフ・トルコ、ロイ・ジェームス(のちタレント)も出場。

ボクサーとして、柔道に覚えのある飛び入りの客と試合もした。

昭和28(1953)年、大阪で「相撲対柔道」を謳い文句に山口利夫対清美川戦が行われた際、

セミ・ファイナル以下はプロレスではなく、柔拳試合だったという。

古臭い柔拳試合は、プロレスというハイカラな新競技の出現とともにその役割を終え、

消え去ったようである。

 

プロ柔道

 

昭和25(1950)年、牛島辰熊八段が愛弟子の木村政彦七段を擁して国際プロ柔道協会を設立。

4月に東京で旗揚げ興行、その後地方巡業も行ったが、地味な試合振りからか人気が出ず、

主力の木村・山口が脱退し、程なく消滅。

その後日本に誕生したプロレスに人材を供給した。

 

ルールは、指、手首、肩、足首、膝などの「逆」技(関節技)を解禁。

(但し指の逆は2本以上。)

腕を逆に取っての背負い投げや、胴締めも認めた。

 

木村政彦

戦前に全日本三連覇を達成。

プロ柔道脱退後、ハワイでプロレスに転向。

昭和26(1951)年、ブラジルでグレイシー柔術のエリオ・グレイシーにジャケット・マッチで勝利。

昭和28(1953)年、帰国し柔拳試合に参加。

昭和29(1954)年2月19日、東京・蔵前国技館の日本プロレス協会主催興行で、力道山と

組みシャープ兄弟と対戦。

日本にプロレスブームを起こした立役者の一人となる。

同年5月、郷里の熊本で国際プロレス団を旗揚げ。

同じく12月、日本ヘビー級選手権を力道山と争い、KO負け。

大阪に本拠を移し、山口利夫と袂を分かった清美川と組んでアジアプロレスを設立するも、

昭和31(1956)年、清美川とともにメキシコ遠征へ旅立つ。

以後主に海外で活動。

残されたアジアプロレス勢はウェイト別日本選手権に参加するが、力道山の日本プロレスに

人気・実力ともに圧倒され、程なく解散、消滅。

昭和36(1961)年、拓大柔道部監督として柔道界へ復帰。

 

山口利夫

早大柔道部出身、六段。

木村とともにプロ柔道参加−脱退−ハワイでプロレス転向。

昭和27(1952)年、木村とのタッグでサンフランシスコ・マットのメインをとった。

昭和28(1953)年、大阪で「相撲対柔道」を謳い文句に清美川(元前頭筆頭)と対戦し勝利。

ただしセミ以下はプロレスではなく、柔拳試合だったという(ユセフ・トルコも出場)。

昭和29(1954)年2月6日、大阪でのブルドック・ブッチャー(実は駐留米軍人)戦は、

NHK大阪でテレビ中継された(関西から静岡までの試験放送)。

これは力道山・木村組対シャープ兄弟よりも2週間ほど早い。

蔵前の大会には山口も出場したが、セミファイナルでボビー・ブランズに負けている。

昭和30年1月、大阪で力道山の日本ヘビー級選手権に挑戦し敗れる。

全日本プロレス協会として関西で活動していたが振るわず、郷里の静岡県三島に山口道場

 を開き、昭和31(1956)年、ウェイト別日本選手権に参加。

しかし日本プロレス勢に全階級1位独占を許し、のち解散、自身も廃業した。

 

遠藤幸吉

柔道四段。

プロ柔道参加後、昭和26(1951)年、駐留米軍慰問団として来日したボビー・ブランズ

(元世界王者)に、力道山とともに手ほどきを受けプロレス・デビュー。

昭和27(1952)年の米国遠征ではグレート東郷、ハロルド坂田、大山倍達と東郷四兄弟

として活躍。

柔道出身ながら力道山と行動を共にし、日本プロレスで活躍。

引退後も役員を務めた。

 

 

主な参考文献

「プロレス大研究」 田鶴浜弘著、講談社

「日本プロレス30年史」 田鶴浜弘著、日本テレビ放送網

「月刊ゴング」 日本スポーツ出版社

「激動のスポーツ40年史E プロレス」 ベースボール・マガジン社

「やっぱりプロレスが最強である!」 流智美著、ベースボール・マガジン社

「プロレスへの遺言状」 ユセフ・トルコ著、河出書房新社

「格闘技&プロレス 迷宮Xファイル2」 芸文社

「もう一つの昭和史@深層海流の男・力道山」 牛島秀彦著、毎日新聞社

 

 

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