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1887.11.5 レスラーのクリストル死去 |
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(ニューヨーク・タイムズの下記ウェブ・ページの記事より和訳) November 5, 1887, Wednesday http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9F05E7D91E38E033A25756C0A9679D94669FD7CF CHRISTOL, THE WRESTLER, DYING. レスラーのクリストル死去 Lucien Marc Christol, the wrestler, is dying at his home in Cincinnati from a stab wound inflicted by "Jim" Toal. Christol came here about 12 years ago when Graeco-Roman wrestling was at the height of its popularity, and met Prof. Miller and Thiebaud Bauer. レスラーのリュシアン・マルク・クリストルが、シンシナティの自宅にて刺されて死去した。「ジム」トールの犯行とみられる。クリストルはギリシャ・ローマ式レスリングが人気絶頂の12年前に来米し、師範ミラーやティエボー・ボーエルと対戦した。 クリストルやボーエルは1875年にフランスより来て後、米国に留まりレスラーとして活躍しました。 もっとも有名なのは、「アメリカン・プロレスの父」ウィリアム・マルドゥーンが、ボーエルを破ってグレコ・ローマン世界王者となった一戦でしょう。 January 20, 1880, Wednesday http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=9E04EFDF153BE033A25753C2A9679C94619FD7CF MULDOON DEFEATS BAUER. GRAECO-ROMAN WRESTLERS AT WORK―FOUR THOUSAND SPECTATORS OF THE MATCH. William Muldoon, the wrestling policeman, and Thiebaud Bauer, the French athlete, wrestled last night, in Madison-Square Garden, for a trophy valued at $200 and the championship of the world in the Graeco-Roman style of wrestling. (以下略) その後、しかし残念ながら、クリストルは上記のように殺されてしまいます。「アンドレ」はリング・ネームで、「リュシアン・マルク」が本名だったのでしょうか。 追記 2010.3.28 アンドレ・クリストルは殺されなかったようです。1887年より後にも活動の記録がありました。 誰かが殺されたとすれば別人なのでしょう。リュシアン・マルクの正体については調査中です。 ボーエル対マルドゥーン戦については、こちらのサイトでニューヨーク・ヘラルドの記事を読むことができます。 http://www.lutte-wrestling.com/bauer_113p.htm 「DRAWINGS: next」という所をクリックすると、当時のイラストも見られます。これは田鶴浜弘さんの名著「プロレス大研究」(講談社)にも小さく載っています。 メニューページ「覆面レスラーの起源」へ戻る |