1871 キャッチ・アンド・キャッチ


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The Ouachita telegraph. (Monroe, La.)  September 23, 1871
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The “Great” Wrestling Match.
「大」レスリング試合。

 PITTSBURG, Sept. 11. 1871.―The great wrestling match for $1,000 a side and the championship of America, between Ralph Wolfender and John Cross came off at Union Park, Allegheny, this afternoon.

 ピッツバーグ、1871年、9月11日。―賭け金双方1,000ドルの大レスリング試合にして米国選手権は、ラルフ・ウォルフェンダーとジョン・クロスの間で、この午後、アルゲイニーの、ユニオン公園にて行われた。

 A large number of the sporting fraternity witnessed the match, which was usually well contested. The conditions of the wrestle were catch and catch, or the Lancashire fashion. For one hour and three-quarters they struggled with might and main for the mastery, resorting to all the trips, tricks, etc., known to the art of wrestling. Each one was brought to his knees once, when finally, by a well-directed trip, Cross was landed on his back. An exciting scene ensued. His friends claimed that the seconds of Wolfender had thrown sand in his eyes. Wm. Winterbottom, the referee, however, refused to allow the claim, and called “time.” Wolfender toed the scratch, but Cross refused to go on with the entertainment. The referee then decided the match in favor of Wolfender, Cross filing his protest thereto. The stakes were not handed over, but probably will be to-night or to-morrow.

 数多くのスポーツ愛好家が観戦したその試合は、普通によく競技されるものであった。レスリングの条件は掴みに掴め、言い換えればランカシャー流であった。一時間四十五分の間両者は力一杯勝利のために奮闘、レスリング術に知られるあらゆるつまずかせ技、トリック、等々の手段に訴えた。互いに一度はひざまずかされたが、とうとう、狙いすましたつまずかせ技で、クロスが仰向けに着地させられた。刺激的な場面が続いて生じた。彼の仲間達が物言いをした所ではウォルフェンダーのセコンド達が彼の目に砂を投げたという。ウィム・ウィンターボトム、行司は、しかしながら、その物言いを認めることを拒絶し、「開始時間」を宣した。ウォルフェンダーは仕切り線を爪先で踏んだが、しかしクロスは取り組みを続けることを拒んだ。行司はそこでウォルフェンダーの戦勝を決定したが、クロスはなおその上異議を申し立てていた。賭け金は手渡されなかったが、恐らく今夜か明日になろう。



 ワシタ“Ouachita”は、米国中南部のアーカンソー州の郡名です。
 モンロー“Monroe”という郡も同州内にあります。
 “La”は、ここでは隣接するルイジアナ“Louisiana”州の略名。
 これら題号に連なる地名は、発行地域を示すものと思います。
 アルゲイニーは米国東部のペンシルベニア州の郡で、ピッツバーグ市を抱えています。

 記事の試合は、膝をついても負け、というカンバーランドとは違うルールであることは明らかですが、何分短文ですので、詳細はわかりません。
 砂地に線を引いてリングを画し、敷物も敷かずに闘って、フライング・フォール(投げ一本)で決まった(一本目。二本目以降は試合放棄)、というようにも想像されますが、だからといって寝技なしのルールだった、とも限りません。
 田鶴浜さんの名著「プロレス大研究」(講談社刊)には、「イギリス北方のレスリング」という見出しで、草原で敷物なしでグラウンド・レスリングをしている写真が掲載されています。
 思うに、組み手の縛りがあり選手同士が常に膠着しているカンバーランドや、カラー・アンド・エルボー、サイド・ホールドとは違って、組み手や間合いが自由なランカシャー・スタイルやグレコ・ローマンでは、投げだけで相手の両肩を着地させるのはなかなか難しく、寝技(押さえ込み)が必要になったのではないでしょうか。

 当時における双方千ドルの賭け金は、相当高額だと思いますので、汚い手を使っても勝ちたい、勝たせたいという気にもなるかもしれません。



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