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1880.3.20 W・ミラー 対 P・ライアン |
ニューヨーク・タイムズ March 21, 1880 http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F70E12FE34551B7A93C3AB1788D85F448884F9 CHARITABLE GIVING AND TAKING. 慈善の協力。 A boxing entertainment, in which 40 professional and amateur pugilists displayed various degrees of proficiency in “the manly art,” was given last evening in Madison-Square Garden for the benefit of the Irish famine fund. About 3,000 persons, including five women, were present. Harry Hill acted as referee, and Barney Aaron performed the duties of master of ceremonies. The most exciting contest were between George Taylor, a colored celebrity, and “Jimmy” Kelly, “Ned” Mallahan and “Billy” Madden, “Prof.” Austin and Frank Gormley, “Billy” Edwards and “Prof.” Jordan, “Joe” Goss and “Steve” Taylor, “Paddy” Ryan, of Troy, and William Miller, the wrestler; Mike Donovan and “Prof.” McClelland. There was also an exhibition of club-swinging by Gus. Hill, and a rather exciting collar-and-elbow wrestling-match between William Johnson of Vermont, and Charles Murphy, “the New-York blacksmith.” The contest ended in a victory for the Vermonter, who scored two falls in a manner that called forth vociferous approval from the crowd. ボクシング興行、そこに於いて40人のプロフェッショナルとアマチュアの拳闘家達が「男らしい技芸」に於ける習熟の様々な度合いを示した、が昨夜マディソン方形公園に於いて催されたのはアイルランド飢饉慈善基金のためであった。およそ3,000人、5人の御婦人方を含む、が出席した。ハリー・ヒルが行司の役を勤め、バーニー・アーロンが司会者の任を果たした。最も刺激的な競技はジョージ・テイラー、有色の著名人、対「ジミー」ケリー、「ネッド」マラハン対「ビリー」マッデン、オースチン「師範」対フランク・ゴームリー、「ビリー」エドワーズ対ジョーダン「師範」、「ジョー」ゴス対「スティーブ」テイラー、「パディ」ライアン、トロイ在、対ウィリアム・ミラー、レスラー、マイク・ドノバン対マクレランド「師範」。またガス・ヒルによるこん棒振りの公開があり、そしてかなり刺激的な襟と肘式レスリング試合がヴァーモントのウィリアム・ジョンソンと、チャールズ・マーフィー、「ニューヨークの鍛冶屋」との間にあった。競技はヴァーモント人の勝利に終わり、彼は群集から四度大声の賛意を招いた態度の内に二本を得た。 後年、豪州の新聞“The Mercury ”(マーキュリー)が、この試合について次のように書いています。 At this time Paddy Ryan was in the zenith of his fame as champion of America. A boxing match was arranged between him and Miller, the proceeds to be devoted to the Irish Relief Fund. Madison-square Gardens, New York, was the scene of the contest, 5,000 people paying for admission to witness the match, which only last three rounds ; on the conclusion of which Ryan refused to go on. この当時はパディ・ライアンが米国王者として名声を極めていた。ボクシング試合が彼とミラーとの間で整い、その売上はアイルランド救済基金に捧げられる事になった。ニューヨークの、マディソン方形公園が、競技の場となり、5,000人が入場料を払って観戦した試合は、三ラウンドしか続かず、その結末はライアンが続行を拒絶したのであった。 しかしライアンは当時まだ王者ではありませんでしたし、観客数も少し多いようです。ボクシングだけで20試合もあったであろうチャリティー興行ですから、3ラウンドの模範試合で勝負がつかないのは仕方のないことと思います。(この記事について詳しくは別ページ「ミラー対フォーリー 1883.5.26 告知記事」に書いています。) Paddy Ryan http://boxrec.com/list_bouts.php?human_id=032591&cat=boxer http://www.cyberboxingzone.com/boxing/ryan-p.htm 「サイバー・ボクシング・ゾーン」には、この試合でライアンが怪我をし、2ラウンドで退いた、とあります。 このわずか3日後、所は同じMSGで、ミラーはウィリアム・マルドゥーンとプロレス試合を行います。 ニューヨーク・タイムズ August 24, 1883 http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F10A10FC385F15738DDDAD0A94D0405B8384F0D3 A PRIZE-FIGHTER SHOT THE MYSTERIOUS WOUNDING OF PADDY RYAN IN CHICAGO. 賞金稼ぎが撃たれる。 謎の負傷は パディ・ライアンがシカゴに於いて。 SUSPICIONS THAT HE WAS SHOT BY HIS MISTRESS, WHO THEN TRIED TO KILL HERSELF BUT FAILED. 不審にも彼を撃った彼の愛人は、次に自殺を試みて失敗。 CHICAGO, Aug. 23.―Sporting circles in this city are in a ferment to-night over the fate and whereabouts of Paddy Ryan, Sullivan’s competitor in the prize-ring. Exactly where he is and in what condition is not at this writing known. … シカゴ、8月23日。―この町のスポーツ界が今宵大騒ぎなのはパディ・ライアン、プライズ・リングに於けるサリバンの競争相手の悲運と行方についてである。全く彼がどこにどんな状態でいるかはこれを書いている時点で不明である。(略) … Shortly after his fight with Goss, Ryan fought a “draw” with Prof. William Miller in Clarendon Hall, this city, with soft gloves. … (略)彼のゴス戦のすぐ後に、ライアンはウィリアム・ミラー師範と、我が町の、クラレンドン会堂に於いて、柔らかいグローブ着用で闘い「引分け」た。(略) ライアンが彼の愛人と名乗る女性に撃たれたらしい、という事件記事です。早手回しにも、死亡記事のように経歴の紹介があり、その中にミラー戦の記述があります。時期も場所も、前述のチャリティー試合とは違うようです。なお、ライアンが亡くなったのはずっと後のことです。 ミラー戦の少し前に行われたゴス戦とは、ライアンがジョー・ゴスに勝って米国ヘビー級王者となった一戦(1880年6月1日、素手によるプライズ・ファイト)でしょう。 ニューヨーク・タイムズ June 2, 1880 http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F40D1FF63C5B1B7A93C0A9178DD85F448884F9 Chronicling America: Historic American Newspapers http://chroniclingamerica.loc.gov/ Daily globe(デイリー・グローブ) June 2, 1880 http://chroniclingamerica.loc.gov/lccn/sn83025287/1880-06-02/ed-1/seq-2/ (マウスを左クリックからドラッグして、読みたい所をページ真ん中の「+」辺りに持って行き、ZOOM「+」で拡大して下さい。) (右から4列目の最初から3列目にかけての記事です。) ライアンがジョン・L・サリバンに敗れ、王座を失った一戦(1882年2月7日、素手によるプライズ・ファイト)の記事はこちらです。(この頃にはミラーは既に豪州に帰国していました。) ニューヨーク・タイムズ February 8, 1882 http://query.nytimes.com/gst/abstract.html?res=FB0712FF35581B7A93CAA91789D85F468884F9 Omaha daily bee(オマハ・デイリー・ビー) February 8, 1882 http://chroniclingamerica.loc.gov/lccn/sn99021999/1882-02-08/ed-1/seq-1/ (右から3列目の最初から2列目にかけての記事。ボストン生まれとされるサリバンを、ライアンと同じくアイルランド生まれ、と書いているのが珍しい。) メニューページ「豪州武芸師範 プロフェッサー・ウィリアム・ミラー」へ戻る |