@ 山口堅吉編「山口正造 懐想録」(富士屋ホテル、1951)


 「山口正造氏自叙還暦之回顧」 磯野専治
  「宿望の渡英」の章より P24〜30


 (前略) 是等思ひ出深い大使館勤務中、私は大使より厚き信用を受け、又何かと色々世話にもなつたけれども、大使家族の帰国と同時に、私も大使館を去らざるを得なかつた。 (中略)
 暫くの間、食ふや食はずの貧民窟の辛苦を甞めて居る内に、或日棚ボタ式の甘い話が持上つて来た。事の発端はロバート・ライトと云ふ人の柔術指南所に雇はれて居た谷及び三宅の両柔術手を訪問した事にある。ライト氏は其の指南所をバールチツと名付け、中々商売に抜け目なく、谷及び三宅の二人には一週間にたつた三磅宛を払ひ、柔道の指南をなさしめる外に、舞台で柔術興行をなさしめ、全く柔道を見世物扱ひにして、多分の金儲をして居たのである。
 私はライト氏に其の行為の不埒を親切に然かも断乎と話して二人の増給を求めたが空とぼけに之を拒んだ。私は「それなら、それで宜しい。契約満期には両人は君と手を切るだらう」とはつきり云つて別れたが、果して両人も期間満了にロバート氏の許を去つた。私は興行に就いては何ら経験も知識も無かつたが、厚かましくも両人の監督となり、某芝居興行師と契約して一仕事をしようとしたけれども、ただ跳ね付けられに行つた様なもので話は纏らなかつた。かくして私共三人の前途は暗に閉されて仕舞つた。偶々私はモス・エンパイヤ劇場の所有主モス氏を訪問する機会があつた。同氏は柔術の認識もあり、一週五十磅で六週間契約の機会を与えて呉れた。モス氏は倫敦に十九ヵ所の劇場を所有し、次々と谷、三宅の両君を出場させて柔術興行をした。契約条件は若し両人が相手方を十五分以内で負かせば、相手方が十五磅を払ふこと。若し又相手方が両人を十五分以内で負かせば相手方に百磅を与へると云ふのであつた。大変な人気を博して文字通り満員の見物人を呼寄せ付けた。
(中略)
 此の演技が済んでから、私はオクスフォードとキャンブリッジとの両大学対抗仕合に柔道を教授する様に頼まれ、其後数ヶ月間イートン・チャーター・ハウスや、カンタベリー・バラックス、其の外倫敦市警察署にても柔道を教授する様になつた。終にオクスフォード街のエバンス呉服店の真向ふにあるフレーミングと云ふ公衆食堂の階上に柔術学校を開く様になつた。
(中略)
 遠く母国を後に、両親の膝下を去り、兄弟、親戚、友人に別れ、ありと凡ゆる、云ふに云はれぬ困苦、欠乏に堪へ、而も邪道に迷はず、石に噛り付いても成功する迄は「帰るな」と父に励まされ、又「帰りません」と誓ひも固き決意の下に、漂流転々六年を送り迎へてニ十二歳となり、コンノート・スクエア街に四階建十一室の家を借り雇人六人を使ふ身となつたのである。 (後略)


(※磅=ポンド。漢字の旧字体は新字体にした)



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