A 山口由美著「箱根富士屋ホテル物語」(トラベルジャーナル、1994)

 
  「放浪」の章より P120〜122

  
 (前略)
 大使館勤めは二年間続いたが、大使の帰国で、正造はまた職を失ってしまった。所詮は、大使の好意による臨時雇いだったのだからしかたない。
 再び、その日暮らしの生活に転落してしまった正造だったが、二人の柔道家との出会いが彼の運命を大きく変えた。柔道家は一人が谷、もう一人が三宅といった。ロバート・ライトという英国人の経営する柔道場で、谷と三宅は柔道を教えるとともに、柔道の興行もやっていた。しかし、ライトがあくどい商人で、いいように安い給料で使われていたのである。
 正造は、ライトに代わって、彼らと一緒に柔道の興行をやることを思いついた。柔道ならば、立教学校時代に多少の心得がある。興行なんて経験はないが、そこは当たって砕けろだ。正造の“放浪”にも、一筋の光が見え始めていた。
 この頃、柔道は、ヨーロッパに紹介されたばかりだった。やがて正造はマネージャー役だけでなく、自ら実演もするようになるが、当時だったからこそできた無謀だったのかもしれない。なにしろ相手は、柔道というものを初めて見る連中ばかりである。正造程度の腕前でも、エイヤーッと投げれば、びっくりする。ちょうど日露戦争が終わり、日本という東洋の国への認識も高まっていた時代背景も味方したのだろう。谷と三宅と正造の三人はだんだんに、その存在を知られるようになっていく。
 ついに正造は、オックスフォード、ケンブリッジ、ロンドン警察などで柔道を教えるまでになる。出張教授をするだけでなく、ロンドン市内に柔道学校も開校した。すべてが順調であった。十一室も部屋がある屋敷に住み、六人の使用人を使うまでになったのである。
 いくら柔道の黎明期だったとはいえ、学校時代に数年習っただけで、こんな図々しいことをしていいのだろうかと、私などは思ってしまう。だが、これだけ図々しければ、それも一つの才能なのかもしれない。 (中略)
 柔道学校を構え、屋敷に住むようになったのが二十二歳のとき。渡米から五年で掴んだ成功だった。 (後略)


 ※2002年に出版された「新装版」も同文です。


 上記は格闘技史とノンフィクションの著作権について研究する目的で引用しています。メニューページ「富士屋ホテル社長・山口正造の柔術家時代」にリンクした他のページもご覧下さい。