B 松沢成文著「破天荒力 箱根に命を吹き込んだ「奇妙人」たち」(講談社、2007)


 「ロンドンで「柔道家」として成功」の章より P200〜201


 (前略)
 しかし、二年後にその大使が帰国してしまうと、臨時雇いの正造はまたしても失職し、今度はロンドンで路頭に迷うこととなった。
 さあ、困った。しかし、正造の正造たるゆえんは、ここから発揮される。職を求めてさまよっていた街中で、谷と三宅という二人の日本人柔道家と知り合い、彼らとともにロバート・ライトというイギリス人が経営する道場で柔道を教えることになったのである。同時に、「柔よく剛を制す東洋の神秘、ジュウドウ」といった感じの興行もやった。いわば、イギリス人相手の見世物である。
 だが、正造はすぐにライトの悪辣な搾取ぶりを知ることとなる。谷と三宅の給料が、あまりに少なすぎる……。正造は激しい憤りを感じた。そこで、どうしたか。この二人に持ちかけ、ライトのもとから独立させてしまったのである。正造の当初の役割はマネージャーであったが、しだいに人手不足になり、やがて自らも柔道を教え、興行で柔道の実演もするようになった。
 人に教えられるほど、彼は柔道に熟達していたのだろうか? とんでもない。立教中学時代に多少の心得があった程度のことらしい。しかし、当時の異国では柔道そのものがめずらしかったのか、正造、谷、三宅の名は高まるばかりだった。ついに正造は、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学、ロンドン警視庁などでも柔道を教えるようになり、ロンドン市内に自前の柔道場を構えるまでになった。なんともいい度胸である。
 ここまで成功すれば経済的な実入りも大きい。日本を離れて五年、二二歳のときには、一一部屋もある豪邸に住み、六人の召し使いにかしずかれる生活を送るようになっていた。



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