C ノンフィクションの著作権(1)


 山口正造(旧姓金谷)は、日光金谷ホテル創業者の次男で、箱根富士屋ホテルの創業家に婿入りし、支配人・社長を務めました。若い頃は海外を放浪し、谷幸雄や三宅太郎らと共に、西欧で柔術家として活動しました。
 その伝記をその一部とする二つの本の著者が、著作権侵害を法廷で争いました。原告の山口由美さんは、正造の義弟でその後継社長・山口堅吉氏の孫。被告の松沢成文氏は、当時の神奈川県知事です。
 その一審の判決記録がこれです。
(なお、「ないし」という言葉は、法律用語では「〜から〜まで」という意味で使われます。)


裁判所>裁判例情報
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0010?action_id=first&hanreiSrchKbn=01

平成20(ワ)1586 著作権侵害差止等請求反訴事件 著作権 民事訴訟
平成22年01月29日 東京地方裁判所
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20100203153359.pdf

(P6〜)
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第3 争点に関する当事者の主張
 1 争点1(被告らによる複製権又は翻案権の侵害の成否)について
 (1) 原告の主張
 ア ノンフィクション作品の特殊性等
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 イ 狭義の表現に関する複製又は翻案
 :
(P14〜)
 :
 ウ 事実の取捨選択等に関する複製又は翻案
 前記アのとおり,ノンフィクション作品においては,エピソード,事実,提示する資料・文献等の取捨選択,あるいは,これら資料などの引用,要約の仕方においても創作性が発揮され得るのであり,このような視点からみて,被告書籍は,原告書籍の複製又は翻案に当たる。
 (ア) 別紙対比表2について
 別紙対比表2は,原告書籍及び被告書籍における一つのまとまりの記述部分をX1ないしX21の標題を付して特定し,それぞれの記述部分のうち特に共通する記述部分を「X1(同一箇所)」等の標題の下に「bP」等の番号を付して対比したものである。なお,別紙対比表1の各番号の記述部分は,別紙対比表2の当該番号の記述部分と同一である。
 そして,原告書籍のうち,別紙対比表2のX1ないしX21の「物語」欄の各記述部分は,それぞれが表現上の創作性を有する著作物であり,これに対応する被告書籍の「破天荒力」欄の各記述部分は,上記各原告書籍記述部分の複製又は翻案に当たる。
 a …
 :
(P22〜)
 :
 n X14について
 原告書籍記述部分においては,正造を描くに当たって,「懐想録」(乙3)の18ないし49頁に記載された数あるエピソードの中から,以下のようなエピソードを取捨選択し,以下のような流れで記述した点に原告の独自性があり,創作性を有する。
@ ロンドンで日本大使館へ駆け込む。
A 最初は断られるがあきらめずに大使と直談判
B ボーイとして採用
C 2年後に大使帰国で失職
D 二人の柔道家との出会い
E ロバート・ライトの柔道場で柔道を教えると同時に興行
F ライトのあくどさに気づき,独立
G マネージャーと実演
H 当時の異国ではまだ柔道は珍しかったので技術がなくとも何とかなった。
I 3人は有名になる。
J ロンドン警察,オックスフォード大,ケンブリッジ大で教えるようになる。
K 自前の柔道学校開校
L 渡米から5年,22歳の時には,11室の豪邸,6人の使用人を雇うまでに成功する。
 他方,被告書籍記述部分においても,以上の各エピソードの選択及び記述の流れが,原告書籍記述部分とほぼ共通しており,原告書籍記述部分と同一性又は類似性がある。
 なお,「懐想録」(乙3)の30頁1行目には,「漂流轉々六年・・・」とあり,原告書籍記述部分において「渡米から五年」と記載したことは誤りであるが,被告書籍記述部分においても,「日本を離れて五年」と全く同じ誤りが認められる。また,正造と二人の柔道家との出会いについて,被告書籍記述部分では,「職を求めてさまよっていた街中で,谷と三宅という二人の柔道家と知り合い」とあるが,「懐想録」には「谷及び三宅の兩柔術手を訪問した」とあり,街中で出会ったことにはなっていない。これは,原告書籍記述部分にある「二人の柔道家との出会いが彼の運命を大きく変えた」の「出会い」という記述に,被告が引きずられたものと思われる。これらのことからも,被告書籍記述部分が原告書籍記述部分を模倣して作成されたことが強く推認される。
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 「破天荒力」における「彼らとともにロバート・ライトというイギリス人が経営する道場で柔道を教えることになった」という記述は、「懐想録」とは異なります。「懐想録」の該当部分を読んでいて、こう書くでしょうか(別のソースに基づいて書いた、と主張するなら別ですが、それをわたしは見つけられません)。「箱根富士屋ホテル物語」にもそのようには書いていないのですが、はっきり否定する記述もなく誤読の余地があります。ただどうしたことか裁判で原告側は「E ロバート・ライトの柔道場で柔道を教えると同時に興行」という記述が原告書籍にある、という誤った主張をしています。
 わたしは上記三書を通読したわけではなく、正造の海外放浪時代の項を読んだのみです。あくまでもそこのみについての感想ですが、「箱根富士屋ホテル物語」と「破天荒力」は、表現こそ違えども、ほぼ同じことが書かれている、という印象を受けました。「懐想録」は、該当部分の記述が詳細にして量が多く、これは別物との印象でした。
 しかしながら、法律上著作権侵害を争う場合には、そうしたことは問題にならないようです。裁判は最高裁で上告が棄却され、被告が勝訴しました。下記は二審の判決資料です。


平成22(ネ)10017等 著作権侵害差止等反訴請求控訴事件 著作権 民事訴訟
平成22年07月14日 知的財産高等裁判所 
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20100716152954.pdf

(P7〜)
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第4 当裁判所の判断
 1 争点1(控訴人らの被控訴人の複製権又は翻案権の侵害の成否)について
 (1) …
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(P15〜)
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 (2) 原判決添付別紙対比表2について
 被控訴人は,控訴人書籍被控訴人書籍に依拠していること(当事者間に争いがない)を前提に,いわゆるノンフィクション作品においては,事実,提示する資料・文献等の取捨選択あるいはこれらの資料等の引用及び要約の仕方に著作者の創作性が発揮されるところ,原判決添付別紙対比表2の各控訴人書籍記述部分が,いずれもこれらに対応する各被控訴人書籍記述部分で発揮された上記の創作性を有する部分と同一又は類似しており,したがって当該被控訴人書籍記述部分を再製し,又はこれを土台として修正・増減等して変形して制作されたものであるから,被控訴人の複製権又は翻案権を侵害している旨主張する。
 そこで,まず,被控訴人が問題にしている原判決添付別紙対比表2のX1ないしX21の以上合計21箇所について個別に検討することとする。
 ア …
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(P25〜)
 :
 セ X14について
 この箇所の被控訴人書籍記述部分と控訴人書籍記述部分とでは,@ロンドンに渡った正造が大使館に駆け込み,大使と直談判の末にその好意で日本大使館のボーイとして勤めたこと,A臨時雇いだったために大使の帰国に伴って2年後に失職した正造が,谷と三宅という2人の日本人柔道家と知り合い,彼らとともにロバート・ライトという英国人が経営する道場で柔道を教えるとともに,柔道の興行をするようになったこと,Bその後,ライトの搾取ぶりを知った正造らが,ライトのもとを離れて3人で柔道の興行をやるようになったこと,C正造が立教学校当時に柔道の多少の心得があったこと,D3人が,徐々にその存在を知られるようになり,大学や警察でも柔道を教え,ロンドン市内に柔道場を持つようになったこと,Eその結果,正造が,11室もある屋敷に住み,6人の使用人を使うようになったこと,Fそのような成功が,正造が22歳で,渡米から5年で実現したことを記述している点において共通しており,被控訴人書籍記述部分では,上記@ないしFの事実は,概ねこの順序で記載されている。
 しかしながら,被控訴人書籍記述部分の上記事実の選択及び配列自体に表現上の格別な工夫があるとまでいうことはできない。そればかりか,被控訴人書籍記述部分には,正造と同時代の人物である野口英世を取り上げ,野口英世と正造の行動や性格を比較する筆者の意見(すなわち思想),正造程度の実力でも柔道家として認められた歴史的背景に関する推測(すなわち思想),正造が貴族の館に招待されたこと,上記のような遍歴の結果,労働者階級の英語から上流階級の英語まで解するようになったことなどが記述されているのに,控訴人書籍記述部分にはこれがないことに加えて,控訴人書籍記述部分では,上記事実が@,A,B,C,D,F及びEの順序で記載されているため,両者は,事実及び思想の選択及び配列が異なっている。
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(P31〜)
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 ニ 小括
 既に説示したとおり,著作権法は,思想又は感情の創作的表現を著作物として保護するものである(著作権法2条1項1号)から,思想,感情若しくはアイデア,事実若しくは事件など表現それ自体ではない部分又は表現上の創作性がない部分は,著作権法による保護が及ばない。すなわち,歴史的事実の発見やそれに基づく推論等のアイデアは,それらの発見やアイデア自体に独自性があっても,著作に当たってそれらを事実又は思想として選択することは,それ自体,著作権による保護の対象とはなり得ない。そのようにして選択された事実又は思想の配列は,それ自体としてひとつの表現を構成することがあり得るとしても,以上のとおり,原判決添付別紙対比表2記載の各被控訴人書籍記述部分の事実又は思想の選択及び配列自体には,いずれも表現上の格別な工夫があるとまでいうことはできないばかりか,上記各被控訴人書籍記述部分とこれに対応する各控訴人書籍記述部分とでは,事実又は思想の選択及び配列が異なっているのである。
 したがって,上記各控訴人書籍記述部分は,これに対応する各被控訴人書籍記述部分と単に記述されている事実又は思想が共通するにとどまるから,これについて各被控訴人書籍記述部分の複製又は翻案に当たるものと認めることができないことは明らかである。
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 表現を変える。
 事実又は思想の選択及び配列を(少しでも)変える(減らす)。
 これだけで、ノンフィクションが先行作品に対する著作権侵害に問われない。
ということのようです。上記判決文では、「@ABCDEF」が「@ABCDFE」となっているので配列が異なっている、と言い切っています(EとFが入れ替わっているだけです)。

 しかし、ノンフィクション作品における「事実」(と読めるように書かれた記述)は、すべて本当に事実でしょうか。事実誤認もあろうし、事実を膨らませて書く場合もあるのではないでしょうか。その場合どうなるのでしょう。
 「破天荒力」のみにある「彼らとともにロバート・ライトというイギリス人が経営する道場で柔道を教えることになった」という記述が「懐想録」と異なる、ということを先に述べましたが、実は「懐想録」自体にも大分怪しいところがあります。「ロバート・ライト」が「バートン・ライト」の誤記(筆記者の聞き違いか)であるのはともかく、その道場にいたという記録は、金谷正造同様、三宅太郎についても、他に見つかりません。
 三宅の名が英国に現れるのは、1904年12月からのようです。一方バーティツ道場の閉鎖は、諸説ありますが遅くとも1903年(※)のようです。

※ 岐阜経済大学論集42巻3号(2009年3月)
 E・W・バートン・ライト「柔術と柔道」
 訳者(小野勝敏名誉教授)の前書き。


 「懐想録」中の「山口正造氏自叙還暦之回顧」は、磯野専治という人が筆記者となっています。この人の関与の度合いがどれ程あったものかはわかりません。 


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