D 「ホテルと共に七拾五年」「富士屋ホテル八十年史」


金谷真一著「ホテルと共に七拾五年」(金谷ホテル、1954)


 「弟正造」の章より P35〜36

 (前略) 途方に暮れて身の振り方を日本大使館に頼んだのである。その当時の英国大使は、林薫氏であった。彼は林大使に会って、日光の実家のことをも、現在の自分の身上についても話して、助力を乞うた。大使は「ともかくも、大使館に働いて居れ」と言われたので、大使館の最下級のボーイとして、ここに落ち着くこととした。石炭の運搬をやれば、シルクハットをかぶって大使館の馬車に乗って、別当の役目もした。そうこうして居る中に二年は瞬く間に終ってしまった。そして世の中は、日露戦争に突入した。
 その頃、谷と言う柔道教師が、オックスフォードサーカスで柔道術のショウを開いて居た。然し谷は柔術が出来ても、英語が話せない。弟は英語にはその時分は相当の自信を持てる様になったが、柔術の方は谷氏程ではない。然し谷氏に、自分と協同でやらないかと申込んだのである。谷氏も彼の申出を簡単にきいて、仲間に入れてくれた。この二人はそれからこの仕事を協同でやり出して、相当の評判をとった。そして収入も次第に殖えて来た。そうなると大使館勤めと、柔術の方とを両方やるわけにも行かない。収入の多い、顔もきく方に移って行くのが当然であろう。彼は林大使に「大使館からお暇を頂戴し度い」と云った。大使は「職を退いて如何する気か」と尋ねられるので「柔術の学校を友人と開いて教えます、この仕事は自分相当な仕事で、有利でもある様に考えられます」と答えた。大使は「この大使館でボーイ等して、何日までマゴ付いて居るんでは、見込がないと考えて居たが、自活しようとするならば止めない、行って自分で自分の道を開いて行け」と激励された。こんな訳で、彼は柔道教師として身を立てることとなったが、彼等の評判は、日露戦争によって日本への認識と共に、次第によくなって来た。そしてオックスフォードやケンブリッヂ両大学の柔術のプロフェッサーとなる傍ら、ロンドン警視庁の柔術師範を兼任する様になった。こんなことは講道館の正統を踏む人々から言えば、まことにもっての他のことで、邪道であると言われるかも知れない。その当時の英国では、これでやって行けたのである。又その評判をきいて、各所から出張教授を頼まれると云う繁盛振り、その収入も週六十磅にもなって来た。こんなわけで彼がロンドンで羽振りがよい等と云うことは、私共は夢にも考えて居らなかった。 (後略)


 (※真一は正造の兄、金谷ホテルの社長。)


山口堅吉編「富士屋ホテル八十年史」(富士屋ホテル、1958)


 「山口正造氏の生立」の章より P84〜85

(前略) 其後幾多の困難を経て、当時新任公使林董氏の許に出かけ、漸くお眼鏡にかなつて、ボーイになつた。約二ヵ年の後、暇を貰つて公使館を出たが、出て見たらまた駄目であつた。何も仕事はない、蓄へた金もなくなる。貴族の従僕又はホテルのボーイや料理人になつたりして暮してゐた。しかし何が幸になるか判らない。貴族の家庭に従僕となつて住みこんだために英国貴族社会の生活状態を知ることが出来て、後にホテルを経営する上に、どんなに役に立つたか知れない。又公使館に居た時も、ギルド・ホールの宴会とか、バツキンガム・レビユーとか、外務大臣の夜会など、と云つた大饗宴を見に行くことが出来、これが又後年のホテル経営に非常に助けをなした。
其後、オツクスフオード大学、ケンブリツジ大学、貴族学校イートン、チヤーターハウス・スクール、ウーリジ陸軍学校に柔道の師範となり、英国に在留すること七年に及んで父親に呼び戻され、明治三十九年二十五歳の時帰朝した。以上は氏が山口家入籍以前の経歴である。


 (※漢字の旧字体は新字体にした。)


 上記は格闘技史とノンフィクションの著作権について研究する目的で引用しています。メニューページ「富士屋ホテル社長・山口正造の柔術家時代」にリンクした他のページもご覧下さい。