E ノンフィクションの著作権(2)


林董(はやしただす)
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E8%91%A3

1900年 2月、駐英公使に任命される
 :
1905年 12月、駐英日本公使館の大使館昇格に伴い、駐英大使に任命される
 :
1906年 3月、帰朝命令をうけ、ロンドンを出発
     5月、外務大臣に任命される

 由井正臣校注「後は昔の記 他――林董回顧録」(平凡社、1970)の「林董略年譜」より。
(ちなみに日露戦争は1904年2月から1905年9月。)

 正造の英国滞在中、一貫して林董が公使、大使であり、よって「大使が帰国したため失職」という事実はあり得ません。一方、柔術家の方が収入が多いので自ら大使館を辞めた、という「ホテルと共に七拾五年」の記述は自然に見えます。

 山口由美さんは「懐想録」と「ホテルと共に七拾五年」とで食い違いがある場合、主に前者を選択しています※(「ホテルと共に七拾五年」にしかないエピソードはそのまま取り上げています)。自叙だからより正確であろう、と考えたからかもしれません。もっとも既に述べたように、筆を取ってそれを書いたのは別人であり、後者も弟から聞いた話を書いたとすれば、間に1人入っている点で同じと言えます。「懐想録」の記述の方が面白く思えたからかもしれません。
 「破天荒力」の方は、参考文献リストに「ホテルと共に七拾五年」がなく、引用箇所は専ら「箱根富士屋ホテル物語」に拠った(結果として「懐想録」の孫引き)と思われ、参考資料の取捨に悩むことはなかったろうと思います。
 (引用箇所ではありませんが「ホテルと共に七拾五年」に基づくエピソードも孫引きされて載っています。)
 結果として、「箱根富士屋ホテル物語」も「破天荒力」も、事実と異なる記述をしてしまっています。

※ 正造の帰国年について「箱根富士屋ホテル物語」は、「懐想録」にある「明治三十九年」(「富士屋ホテル八十年史」でも同じ)ではなく、「ホテルと共に七拾五年」の「明治四十年」を採用しています(直接的には「ホテルと共に七拾五年」を参考にしていないと思われる「破天荒力」も明治四十年です)。ところが「ホテルと共に七拾五年」には、帰国する林大使の一行に加えて貰って帰って来た、とあり、その前提だと明治三十九年(1906年)でなければならず、結局明治四十年とする根拠はありません。


裁判所>裁判例情報
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0010?action_id=first&hanreiSrchKbn=01

平成20(ワ)1586 著作権侵害差止等請求反訴事件 著作権 民事訴訟
平成22年01月29日 東京地方裁判所
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20100203153359.pdf

(P56〜)
 :
第4 当裁判所の判断
1 争点1(被告らによる原告の複製権又は翻案権侵害の成否)について
 :
(1)別紙対比表1について
 :
(2)別紙対比表2について
 :
(P100〜)
 :
セ X14について
(ア) 原告書籍記述部分及び被告書籍記述部分は,いずれも正造のロンドンにおける事績について述べた記述であり,両者を比較すると,@ロンドンに渡った正造は,最初日本大使館のボーイとして勤めたこと,A2年後,正造は,谷と三宅という2人の日本人柔道家と知り合い,彼らと共にロバート・ライトというイギリス人が経営する道場で柔道を教えるとともに,柔道の興行をするようになったこと,Bその後,ライトの搾取ぶりを知った正造らは,ライトのもとを離れ,3人で柔道の興行をやるようになったこと,C3人は,徐々にその存在を知られるようになり,ロンドン市内に柔道場を持つまでになったこと,Dその結果,正造は,経済的にも成功をおさめ,豪邸に住むようになったこと,以上の@ないしDの事実が述べられている点において共通するものといえる。
 しかしながら,これらの事実やその周辺事実についての具体的表現においては,原告書籍記述部分と被告書籍記述部分との間でほとんど共通性がみられない。むしろ,原告書籍記述部分においては,正造と同時代の人物である野口英世を取り上げ,野口と正造の行動や性格を比較し,常識外れでありながら人々を惹きつける不思議なパワーを持っていたところやチャンスを掴む天才であったところが共通しているなどと述べられているのに対し,被告書籍記述部分においてはそのような記述がないなど,両者の間で特徴的な表現部分における相違がみられる。
 このように原告書籍記述部分と被告書籍記述部分とは,正造のロンドンにおける事績について記述するに当たり,同一の事実を取り上げて記述しているという点においては共通するものの,その具体的表現は異なるものであるから,被告書籍記述部分は,原告書籍記述部分を再製したものとはいえない。また,被告書籍記述部分から,原告書籍記述部分における創作性のある表現上の本質的な特徴を直接感得することもできない。
(イ) これに対し原告は,原告書籍記述部分においては,「懐想録」に記載された正造に関する数あるエピソードの中から,正造を描く上で興味深く,的確と思われるものとして,前記(ア)@ないしDのようなエピソードを取捨選択し,上記の流れで記述した点に原告の創意工夫があり,創作性を有し,この点において共通する被告書籍記述部分は,本質的な部分において原告書籍記述部分と同一性又は類似性がある旨主張する。
 しかしながら,前記(ア)@ないしDの事実は,「懐想録」のみならず,「八十年史」(甲27の84頁,85頁)や「ホテルと共に七拾五年」(甲29の4の35頁,36頁)にも記載されている事実であり,しかも,正造の事績や人物像を描くに当たって,正造が若くして海外に渡り,様々な苦労を経験した事実に触れることは当然のことであるし,その中でも,イギリスにおいて豪邸に住むまでの成功をおさめるに至った経緯について述べることは自然なことであるから,上記の各事実を取り上げて記述したことに格別の独自性があるとはいえないし,また,これらの事実を取捨選択したことそれ自体に原告書籍記述部分における表現上の本質的な特徴があるといえるものでもない。さらに,原告書籍記述部分の記述の流れも,時系列に従ったもので,やはりそれ自体に,表現上の本質的な特徴があるとはいえない。このことは,「ホテルと共に七拾五年」における上記記載部分においても,おおむね上記の各事実が同様の順序で記述されていることからも明らかである。したがって,原告の上記主張は採用することができない。
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 「前記(ア)@ないしDの事実は,「懐想録」のみならず,「八十年史」(甲27の84頁,85頁)や「ホテルと共に七拾五年」(甲29の4の35頁,36頁)にも記載されている事実」とあります。
(なお、「ないし」という言葉は、法律用語では「〜から〜まで」という意味で使われます。)
 別ページ「「ホテルと共に七拾五年」「富士屋ホテル八十年史」」の引用文をご覧下さい。実際にちゃんとあるのは@だけです。Aについては、前述のように「懐想録」にすらありません。裁判官は一体何を見ているのでしょうか。
 事実、事実と簡単に言いますが、山口由美さんが見つけ出すまで、それらは人知れず埋もれていたのであり、見つかった資料にも相互に食い違いがあって、確定したものではなく、その中から素材を取捨選択し、配列して記述することについて、判決文で裁判官は誰がやっても同じ結果になるかのように言っていますが、そんなに単純なものではないでしょう。量的にも、例えば「懐想録」だけをとってみても、選択されなかったエピソードは沢山あります。例えばフランスやスコットランドでの体験は、正造の活動の広範囲さを示すものであり、世界中からお客を呼ぶホテルの経営に資するところもあったのではないかとも思われ、取り上げられてもおかしくなかったと思います。
 随分といい加減な裁判なように思えますが、それでも判例となってしまうのでしょうか。



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