続・嘉納治五郎の立技重視論


嘉納治五郎「嘉納治五郎著作集 第二巻」(五月書房、1983)より

柔道講義

   柔道   (「新日本史」第四巻武道編 大正15年11月 万朝報社)

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    第二章 技術上の発達
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(P146〜)
 … つぎに乱取のことにつき一言すれば、予は修行時代には固技も相当練習したのであるが、起倒流を学んで投技の妙味を悟って以来、柔道の技術方面の修行に投技の特に重んべきことを信ずるに至った。固技ももとより無用でないことはもちろんであるが、投技を前に練習して固技を後にすることを主張しているのである。そのわけは固技を先にする時は投技の発達を妨げるが、投技を先にする時は固技は容易に覚えられるという理屈があるからである。それ故に講道館創設の際は特に投技を奨励したのである。その結果、当時は投技の名人が輩出して講道館の創業時代の歴史を飾ったのである。投技に重きをおいたことは勢い固技を閑却することになった。それで明治二十年前後であったが、警視庁に各地から諸流の名家が集まり、その中に固技の名人もいてそれらと試合した場合、講道館の者は投技で相手になることは苦とは思わなかったが、最初のうちは固技では相当骨が折れたようであった。しかししばらくすると固技も苦にせぬようになって、講道館全体にも固技が台頭して来た。その後京都の武徳会へも各地から固技の名人が来てそれらと試合する場合に、講道館員中固技に不慣れのものは、投技では苦もなく勝っても固技では苦しめられたことがあった。そういうことから従前より固技を練習するものがふえ、昨今では講道館の主なるものは、投技でも固技でも誰と対抗しても屈せぬだけになった。しかしここに一つ注意しなければならぬことは、講道館において固技が発達して来た代りに、巧妙な投技が跡を絶つに至ったということである。人間の力は限りあるもので、一方に力を用いれば他の方が疎かになる。これは止むを得ぬことであろう。そこで将来の乱取について予はかく考えている。先ず投技に重きをおき後に固技を練習すれば、特殊の人は両方に秀でるようになれよう。一般的には両方に秀でることは出来まいから、投技に多くの力を尽くし、兼ねて幾分の力を固技に割き、そうして特に固技に興味を有する人はそれを専ら遣るも可なりと思っている。よって将来そういう方針で指導するつもりである。
 柔道の技術上の変遷は大体上述の如くであるが、ここに審判のことについて如何に変化して来たかということを付言しよう。
 講道館の審判規程は創設の翌年頃から出来ていたのであるが、整備した規程の出来たのは明治三十三年に武徳会と共通の規程を作った時である。武徳会もその前は講道館の規程そのままで審判していたが、新たに一層整備した規程の必要を感じ、講道館自身も同様に考えていた際であるから、自分で立案して諸方から集まって来た大家にも計り制定したのである。
 今日でこそ武徳会に集まるものは殆ど皆直接または間接の講道館柔道の修行者であるけれども、当時はまだ柔術諸流を修めた人がかなりいた。したがって純粋の講道館柔道の規程によって審判することはそれらの人のため不便であろうと思い、立案の際種々に斟酌した点がある。
 その一例を挙げれば、対手から投げられることを恐れて、利きもせぬ技をむやみに掛けて寝てしまうというようなことを大目に見て咎めぬというようなことである。その規程制定の当時は左程の弊害は生ずまいと思っていたが、実際に行って見ると種々の欠陥を発見するに至り、自分はもちろん武徳会長や種々の人からも何とか改善の途がないかとの相談を受け、遂に改正の意を決し、東京においても京都においても主なる人々としばしば会合討究の結果、ようやく出来たのが大正十一年の改正審判規程である。しかるになお不備の点を発見して、大正十四年更に修正を加えて現行の規程が出来たのである。審判者に適当の人を得さえすれば、この規程で従来あった弊害は救い得らるることと信ずる。将来更に改正する場合も生ずるかも知れぬが、審判規程は漸次研究を積んで改善せられたというてもよいのである。
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   道場における形、乱取練習の目的を論ず   (「柔道」昭和5年5−9月号)
    …    
(P272〜)
  乱取の目的は体育武術の両者にあるから、それら二様の目的を果たすように練習せねばならぬということは前号にも書いたが、なお尽くさぬところがあるからいささかここに書き添えよう。乱取を体育という立場から論ずる時は、なるべく自然の姿勢を失わぬようにし、関節の元来の働きを全うせしめ、身体の各部をして円満均斉に発達せしめ、力を入れれば力が入り力を抜けばその局部が柔らかくなり、身体の全体も各部も敏捷軽妙に動作し得るという事を期せねばならぬ。そういう結果はどうしても立勝負を主眼として練習しなければ得られぬ。およそ人間は元来立っているのが必要に応じて坐りもし、横臥もし、その他いろいろの形になるのであるから起立の姿勢を動作の出発点としなければならぬ。それ故に第一に学ばねばならぬ事は、起立の姿勢から自由自在に動作し得る練習でなければならぬ。寝勝負も乱取の一種の練習であるから、ある機会にその方も心掛けることはよいが、最初立勝負が一通り出来てからしないと、身体の練習に最も必要な立勝負が閑却されてしまって、寝勝負だけしか出来ないことになる恐れがある。そのわけは立勝負の出来ない中に寝勝負を習うと、寝てする方が勝手がよくなるから立つことを厭い、初めからぶら下がったりからみついたりして寝て勝負をしようとするようになる。そういう場合には相手が立勝負で応じようと思っても、格段に実力が違わぬ以上は寝て来る方に引きつけられてしまう。なぜならば一方がぶら下がって来るものを立たせてそれを投げるということは二倍の力を要し似寄った力のもの同士では到底出来ることでない。もとよりぶら下がって対手を引きつけようというようなことの可能であるのは、乱取は体育を目的とする外に武術をも目的とするものであるということを忘れているからである。武術が一面の目的である以上は突くことも蹴ることも練習すべきである。乱取で真剣に突いたり蹴ったりしては危険であるから実際にはしないけれども、試合をしているものは互いに対手が突いたり蹴ったりするかも知れぬということを想像して、それに不利でない姿勢を選び、咄嗟の間に対手よりの攻撃に対応出来るだけの心構えをしていなければならぬのである。しかるにもし立っていると投げられるからとてぶら下ったり寝てしまったりしては甚だ危険な状態に己を導くことになる。ぶら下がればそのものの手は襟なり袖なりを持っていて外のことには働けぬが、対手の手はあいているから打つことも突くことも自由に出来る。またぶら下がっていれば機敏に動作することが出来ぬから、対手から蹴られても除けることが出来難い。そうしてまた自分から先に寝てしまえば一層不利に己を導くことになる。なぜならば寝ていれば近寄って来たものを蹴る位しか有効なる攻撃は出来ないから、もし対手が蹴られぬだけの距離にいて、何か得物を持って来て打ちなり投げつけたりすればたちまちに降参してしまわねばならぬ。そういうわけだから武術の練習という方面から見れば立っていて勝負することを眼目とすべきで、寝技は自然倒れた場合とか、対手を捕縛しようとする時に必要な技である。最初寝技を学ぶと遂に立技を覚える機会を失い易いが、最初立技を習って後に寝技を練習すれば両方共が出来るようになる。これは理論上そうであるのみならず従来多くの人の実際についてみても、立技を先に習ったものが寝技と両方出来るようになった例は多くあるが、最初寝技をのみ練習したものが後に立技にも上達した例を余り記憶しておらぬ。
  …


帝國大學新聞 大正15年10月11日号  (「帝國大學新聞 復刻版2巻」不二出版、1984)

柔道審判規定に就いて
    講堂館規定を弾ず
         佐々木喜備三郎

講道館の審判規定と我々帝大の規定との間にかなりの間隙あることを悲しむ。我々はあくまで柔道の隆盛をはかる上において、盡々信ずるところを進めてゆきたいのである。彼は余りに
 因襲 にとらはれ、公平な立場に立つてゐないと思ふ。彼は立業のみに全力をそそぎ、寝業を明かに彼の審判規定をもつて禁じて居る。そもそも柔道は立業と寝業を兼て、始めて完成せられると思ふ。我々帝大は高校、およびその出身者を中心とする。その高校なるものは、特に西の方においては寝業を主として研究されかつそれは十年位以前の彼の一高對二高の試合の時とは異なり、科學的に研究されて居る。彼にいはせれば寝業は防御法なりといふが、彼のはいざ知らず、我の寝業における引コミは明かに攻勢である。我々も
 防御 を主とする寝業はもちろん取るところではない、試合の場合、相手により、相手の動作により立業をやりあるひは寝業に変るといふのがあり得べきはずなるに、規定なるものを作つて、寝業を禁ずるとは受取れぬところである。かく寝業のことのみをいひ来つたが、我々は立業を禁ずるのではない。立業にしろ、寝業にしろ、その人に適し、好むところにまかせたい。規定はあくまで、公平と弾性的であるべきである。厳格な規定を作つて潮流に逆らふ様な行動は取りたくない。我々は柔道の隆盛をはかるため
 趨勢 の赴くままに、スポーツの立場から、この柔道の技なるものを科學的に研究して行きたいのである。彼にいはせれば、柔道は實用に立つ様にとか、護身のためのみにとかいふが、我々は完全なスポーツといふ事を忘れたくないのである。要するに彼は従来の方法のみに固執して、寝業を知らず、かつ研究せず、知ると称してても寝業にして寝業にあらざる昔のことのみを知つてるのである 次に審判者のことについていへば我々はその人を得るのに苦しむのである。我々の公平の立場を理解して、我々の規定―(かなりに審判者に自由
 裁量 を與へる規定であるが)―を知つてゐる人でなければ出来ないのである。しかもその様な人は講道館のお膝元なる東京には少いのである。故にこのたびの京大との試合には先輩に依頼する様な次第である。兎に角東京を中心とする各學校よりなる柔道學生聯盟も講道館側であり、その規定にあきたらず我々は脱会したのである。これに反し西にありては多く科學的な寝業もいれ、公平な立場に立つてる學校多く、このままにありては柔道界はかつ然として東西に別れざるを得ない。それは柔道界の
 滅亡 の秋である。自分はそれを悲しむが故に柔道界の人々も世の進展と共にそのすう勢の赴くところを考へ、柔道の隆盛のために一考をわづらはしたい次第である(談)


=写真=
對京大戦を控へて柔道部は警視庁を迎へ、多数の先輩警官連の見物の下に、一昨九日本學道場に戦つたが、始め彼優勢なりしも、我中堅の奮闘ものすごく昨年六高の副将の新人坂田の奮闘は特に目に立ち遂に御大佐々木以下三人を残して大勝した



 文中の一熟語が時々見出しのように大きくなるのはこの新聞のスタイルで、この記事だけでのことではありません。柔道部と警視庁の練習試合の写真は隣のページにありました。

 嘉納師範が口を酸っぱくして言っても、頑固に引き込みからの寝技をやり続けた学生柔道側からの反論です。
 鹿児島大学教育学部、中嶋哲也さんの次の論文で知りました。


四帝大大会成立過程における「柔道のスポーツ化」論の出現とその歴史的意味
:1918―1928年における学生柔道と講道館の関係に着目して
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpehss/59/2/59_13097/_article
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpehss/59/2/59_13097/_pdf


 その中にありますが、記事を発見したのは東北大学教育研究科におられた三船朋子さんとのことです(三船久蔵十段のご親戚?)。

 佐々木喜備三郎氏が、嘉納師範の言をどのくらい知り理解していたかはともかくとして、柔道を西洋流のスポーツ競技として定義する、というのは一つの立場としてはあり得ましょう。
 即ち、嘉納師範にとって乱取試合はあくまでも修行法の一つであり、目的のための手段であるのに対して、スポーツ柔道においてはルールの中で最善を尽くして試合に勝つことこそが目的です。その立場から言えば、「当身を食わない姿勢を取る」「複数の敵や武器の使用も想定」というような嘉納師範の要求は、ルールを超えた不合理なものであり、置いて来たはずの柔術の古い姿にいつまでもとらわれている、とも見えたのでしょうか。講道館柔道がこれまで立技を中心にして発展して来たからこそ、今後は寝技の方に進歩の余地が大きい、とも考えたのかもしれません。
 個人的には「鴻鵠之志」ということわざを思い起こしもしますが、今は講道館も、オリンピックでメダルを取ることを目的としているのではないでしょうか。


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