東勝熊余話 日本篇


The Independent
 A WEEKLY MAGAZINE August 4, 1904(Volume. 57)
 Publisher: New York : S.W. Benedict
http://archive.org/details/independent57newy
 722ページ
http://archive.org/stream/independent57newy#page/722/mode/1up/
A Japanese Autobiography BY KATSUKUMA HIGASHI
ある日本人の自叙伝 東勝熊著

 以下は一部の要約です。私費留学で仕送りもなく、学費の工面に苦労したようです。

 22年前に薩摩国串木野の屋敷に士族の長男として生誕。父は天朝方の新秩序に逆らって敗戦(40年前、とあるが、戊辰戦争ではなく西南戦争か)の後、許されて公職(村会議員?)につく。牧師の知遇を得てキリスト教に改宗。妻と子供達も続いたが、父は死去。神道家の叔父が一族の長となった。13歳でグラマー・スクール(高等小学校?)を卒業後、叔父に軍人となるべく士官学校(陸軍幼年学校?)に入れられそうになり、家出。旧知の宣教師を頼って熊本に。ミッション・スクールに3年いて、英語、幾何学、三角法、立体幾何学、英文学を学ぶ。次いで同志社大学(同志社英学校)で3年学んだ。1年は数学で賞金(奨学金?)を得た。修了後、渡米。その間母の死を知る。サン・フランシスコに上陸後、大陸を横断してマサチューセッツ州のモンソン学院へ入校。休日はニューヨークの街や農場で働く。次いでイェール大学に入学。1年半、経済学を学ぶ。同時に柔術を体育の一学科として制定すべく運動して、多くの学生の関心を得た。全米体育協会(NCAAの先行組織?)の会長は検討を約束したが、何もなされず。その後財政の窮乏によって大学を離れたが、すぐ戻りたいと思っている。西洋の学問を学んで最終的には日本でそれを役立てたいが、まずはドイツへ行って学問を続けたい。


 “A Japanese Autobiography”等を元に、東の履歴を推定して年表にしてみます(推定です)。

1881(明治14)11〜12月 生誕〜鹿児島県串木野で初等教育を受ける
1895(明治28)13歳〜熊本 ミッション・スクールで3年学ぶ
1898(明治31)16歳〜京都 同志社で3年学ぶ
1901(明治34)19歳〜米国 モンソン・アカデミーで学ぶ→イェール大学で1年半学ぶ
1904(明治37)22歳〜米国 休学?柔術家として活動を始める
1905(明治38)23歳〜米国→フランス 柔術家として活動
1906(明治39)24歳〜1912(大正元)30歳 ドイツ ベルリン大学で学ぶ
1940(昭和15)58歳〜1941(昭和16)60歳 東京


「角川日本地名大辞典 46」(角川書店、1983)
 編集:「角川日本地名大辞典」編纂委員会 *46.鹿児島県

くしきのし
串木野市
       沿革
〔近世〕
  :
 串木野郷と郷士制 この時代の串木野郷は現在の当市域にあたり、上名村(冠岳を含む)・下名村・荒川村・羽島村の4か村からなり、上名・下名・荒川の3か村は日置郡 ひおきこおり 、羽島村は薩摩郡に属していた。串木野の郷士の数は寛政4年(1792)において259戸であった。また、人口は天明6年(1786)1,323人、明治元年1,593人(男799、女794)、明治5年315戸、人口は男766人とある。郷のほぼ中央、串木野城のある麓(上名村)に、大部分の郷士は居住し、一部は市口・別府(下名村)・荒川村・羽島村に居住し、平時は農業に従事しており、宛行扶持も実情に応じ、名・門単位となった。
 地頭のもとで郷の政治にあたる所三役中、あつかい※(後に郷士年寄)は串木野にあっては長 おさ ・入来・長谷場・宮之原・児玉の5家が最も多く、五摂家 ごせっけ と呼ばれ、地頭仮屋において輪番で政務にあたった。与頭(組頭)は長・東・轟木・児玉・有馬の家々で、郷士の教導および警備にあたった。横目は監察・訴訟の任務で、奥田・肝付・植村・山口・野元・児玉家などが多かったようである。
  :
〔近現代〕
  :
 第34郷校 串木野郷は江戸後期に設立された藩の造士館(かつての聖堂)と演武館を模倣して、手習学文所と剣術稽古所を設けて、郷士子弟の教育を行った。明治期になると、明治2年地頭坂木六郎は、鹿児島城下の教育に倣い仮屋内に達徳館を建てた。これが串木野での学校教育のはじまりである。明治7年達徳館を改め、新校舎を建て、第34郷校と称したが、明治9年串木野小学と改められ、正則の小学校となった。…

※「あつかい」は、「口」偏に「愛」と書きます。


フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 外城制
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%9F%8E%E5%88%B6
 郷士
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B7%E5%A3%AB
 こちらの「薩摩郷士(薩摩藩)」の項もお読み下さい。


 自分を導いた宣教師の名前を、東は「ギューリックとクラーク」と書いています。

同志社大学学術リポジトリ
熊本英学校事件をめぐって 茂義樹
https://doors.doshisha.ac.jp/duar/repository/ir/9251/002000370012.pdf

 熊本英学校ではO・H・ギューリック、シドニー・ギューリック、サイラス・クラーク、マーサ・クラークといった宣教師が教壇に立ったが、1892年に起きたキリスト教弾圧事件の後は宣教師がいなくなり、1896年には廃校に至ったとのこと。東が学んだという「ミッション・スクール」がどこかについては疑問が残ります。あるいは教会で私的に勉強を教わった、ということでしょうか。この自伝には誇張があります。


フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
シドニー・ギューリック

 … 1888年(明治21年)から1894年(明治27年)まで宣教師として熊本に派遣され、伝道の傍ら熊本英学校にて英語の教鞭を執った。1896年から1897年まで一時休暇帰米ののち1897年(明治30年)に再来日し、1904年(明治37年)まで四国の松山高等女学校で英語教師として教壇に立った。この間旧制中学や師範学校の教師らとともに校外学習の場を設け、家庭の事情や経済的理由で上級学校へ進めない子弟を対象に英語、初歩の天文学、社会学、進化論なども教えた。


“La Vie au Grand Air” 1905年11月24日号(No376)
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k96050017/f17.image

 渡仏した東が「わたしが今あるのはホシノのおかげ」と語っています。熊本で星野九門(四天流)の弟子だったと考えられます。間もなく24歳、1881年に東京で生まれ、8歳から柔術に熱中した、ともあります。“La Vie au Grand Air”でのインタビューが11月に行われたとすれば、生まれたのは1881年の11月か12月となります。
 9歳の頃より柔術を練習している、と書いた新聞記事もありました。柔術を始めた時期は自分でも記憶があいまいだったのかもしれません。
 生地については、仮に東京で生まれたとしても一時のことで、家は鹿児島にあったのではないでしょうか。ベルリン大学の記録でも鹿児島出身となっています。


徳富蘇峰記念館 公式ホームページ
http://soho-tokutomi.or.jp/
 東 勝熊
http://soho-tokutomi.or.jp/db/jinbutsu/5805
 明治〜昭和期の大ジャーナリスト、徳富蘇峰に送った書簡が残されています。蘇峰は同志社の先輩に当たります。

1.絵葉書(伊達源一郎と連名)
  ベルリン・1910年6月5日、東京・明治43年6月21日の消印。

十年目ニ伊達兄ト會
し懐旧ノ念禁じ難し
遥カニ貴兄ノ御健康ヲ祈ル
六月四日 於伯林 東勝熊

 伊達の文は、ベルリンにて東君に非常にお世話になり、今よりウィーンに行く、といった内容でした(わたしには所々崩し字が読めません)。宛名は「徳富蘇峰先生」と伊達が書いています。


ニュースパーク 日本新聞博物館
コラム「日本の新聞人」
明治〜昭和を駆け抜けた島根の新聞人 伊達源一郎(だて・げんいちろう)
http://www.newspark.jp/newspark/archive/shinbunjin/no_51.html

 明治から昭和にかけて活躍した島根県が生んだ代表的新聞人。1874(明治7)年3月15日、能義郡井尻村(現伯太町)に生まれ、同志社に学び99年政治科を卒業、翌年、徳富蘇峰の国民新聞に入り外報記者となった。1906年、蘇峰とともに中国を視察、10年には欧米を回って新聞に関する知識を深め、帰国後の12年編集局長となり部員を統率してスクープや号外、企画などに目覚ましい成果を挙げた。

 伊達源一郎は東より年上ですが同時期に同志社にいたようです。欧米を回った際にベルリンでは旧知の東が世話をした、ということでしょう。


2.絵葉書(1910年のベルリン大学百周年記念)
  ベルリン・1910年(月日?)、東京・明治43年(月日?)の消印。

東京国民新
聞社 徳富猪一郎兄
伯林大學記念絵葉書を送
りて遥かに兄の健康を祈る
 十月十二日  東勝熊
於伯林大學の祝賀會場

 書簡を見る限り、大先輩の蘇峰に対する東の敬語は軽めな感じですし、常に本名で呼んでいます。親しかったのかもしれませんが、いつどこで接点があったのかわかりません。


3.はがき
  文面より1940(昭和15)年の年賀状と考えられる。宛名は「徳富猪一郎様」。

謹而皇紀二千六百年の新春を賀奉候
時節柄本年は年末年始の御挨拶
を欠礼仕候
貴家御一同様の御健勝を祈申上候
              敬具
 元旦
    世田谷区…(住所)…
           東 勝 熊


4.はがき
  消印は1940(昭和15)年12月31日。宛名は「徳富猪一郎様」。
  差出人の住所(世田谷)、氏名も表に書いてあるが、その前に「十二月三十日」とあり。

拝啓 相不変御無沙汰申上げて居ります
が益々御元気で御活躍の趣 為邦家
大慶に存じます、小生も御蔭様で頑健
日独親善日独協同事業のため努力を
続けて居ります、
新年の賀状は時節柄御遠慮申上げます
が御機嫌麗く御越年遊さるる事をお
祈り申上げます 先は右年末の御挨拶まで


5.封書
  封筒裏の、差出人の住所(世田谷)、氏名は活字。
  「昭和拾六年十二月廿九日」(1941年12月29日)の活字もあり。

拝啓
いつも御無沙汰申して居ります 今年もいよいよ押しつまり
ましたが益々御壮健で御活躍の事と拝察申上げます
時局柄年末年始の御挨拶は御遠慮申上げます
が何卒よいお年をお迎へられて益々御元気で
御活動の程をお祈り申上げます
私も元気で活動して居りますから御安心下さい
いづれ来年になりましてゆつくりお目にかかります
では御機嫌よろしく
                  東  勝 熊
徳富猪一郎様

 封筒の宛名は達筆な毛筆書きですが、本文は(これまで同様に)ペンで書かれています。便箋の袖には次のような活字があります。

東京市京橋区銀座西四丁目三番地
    日本ブナ株式會社創立事務所
        電話京橋(56)七八八四番


 「日独協同事業」のための会社だとすると、ブナ材をドイツから輸入する会社でしょうか。


木のお話「ブナのお話」|大塚家具製造販売株式会社
http://kagu.otsukac.co.jp/contents/ki_no_ohanashi_06_buna.php

ドイツ 新しい発見  ドイツの古代ブナ林群
http://www.germany.travel/jp/towns-cities-culture/unesco-world-heritage/germanys-ancient-beech-forests.html

 「ブナ」は、ドイツのイーゲー・ファルベン社が開発したブタジエン系合成ゴムの商品名でもありました(ブタジエンの「BU」と触媒のナトリウムの「NA」から命名の由)。その製法を導入するための会社、とはひねって考え過ぎでしょうか。
 もっとも、会社が無事に創立されたかはわかりません。


神戸大学電子図書館 新聞記事文庫
読売新聞 1939.1.18(昭和14)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00215568&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

代用品時代へ転換
合成ゴムの市販近し
ゴム工業
 :
合成ゴム

さて次に合成ゴム(所謂人造ゴム)というのが我国でも新らしく登場せんとしているが専門家にいわせるとこれは勿論生ゴムの代用品ともなるが全然代用品視するのは誤謬で独特の高級新用途を持っていると云われている、原料は石油、アセチリン、馬鈴薯などで世界大戦当時生ゴムの輸入を絶たれたドイツで熱心に研究され以来発達に向ったものである
現在先進ドイツでは世界的に有名なイー・ゲー社の製品「ブナ」(ブタチェン系製造)を出し米国では「チオコール」(クロプレン系製法)及びデュポン社の「ネオプレン」(多硫化物系製法)の銘柄が知られ又最近ソ連でも盛んに研究され「ソブプレン」「レジニット」などの製品があると云われている、然し一般工業化するにはなお距離を残しており我国では更に低度である、現在ブリッジ・ストンタイヤ、日本電工、住友電線、古河電気工業、東京電気、大内合成ゴム、東京E・C工業等□米国式其他各種の製法により研究室を動員鋭意工業化への軌道を邁進しているが独逸においてさえ「ブナ」は生ゴムの約五倍(近く三倍半になる)の価格、我国では約十倍以上の価格に当り質的にも採□的にも未成品の域を脱せず発明協会から懸賞金がかけられている有様である
然し古河電気工業の自家用「チオナイト」又今回我国で初めて工業化市販される大内合成ゴムの「チオノック」等漸く人造ゴム時代の到来を思わせるに至った
而して合成ゴムの最大特性としての耐油性を始め耐オゾン性、耐老化性、耐酸性、耐水性等は他ゴムでは企及し得ない特殊需要(例えば送油管、電線等には使用価値絶大)分野を確保している上、製造上大量の電気を要する関係上電力資源に比較的恵まれている我国としては同工業の発達に対し一つの需要条件を共有していると云えよう


早稲田大学リポジトリ
資料紹介「中島半次郎関係資料」目録  伊東久智
https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/35592/1/WasedaDaigakushiKiyo_43_Ito3.pdf

 中島半次郎は熊本生まれの教育学者です。1910〜1911年ドイツに留学しているので、その時に知り合ったのでしょうか。P36、P37に、東から出された「大連にて」と題する絵葉書の記載があります。文面は謄写、日付は9月13日とのことですが、年は不明です。大連は旅行で行ったのか、住んでいたのかわかりません。

 東は在学中に「独日交通委員会ベルリン事務所長」という職に就いたようですが、数年後に始まった第一次世界大戦では両国が敵同士になったため、その時に不本意ながらドイツを離れたのかもしれません。第二次世界大戦時の日独同盟は、親独家の東にとって歓迎すべきことだったかもしれません。



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