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剣道範士高橋先生八十年史 |
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高橋赳太郎 ウィキペディア フリー百科事典 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E8%B5%B3%E5%A4%AA%E9%83%8E 凌霜剣友会編「剣道範士高橋先生八十年史」(凌霜剣友会、1940) 先生の壯年時代に於ける修行 一、警察官の武術 (P57〜) 明治政府は北の奉行所を廃して之を刑法官となし、東京市中取鎮めの爲め邏卒を設置し、明治三年二月、之に劍術柔術を課し、北辰一刀流の下江秀太郎・鏡新明知流の桃井春藏等を聘して劍術世話係となしたり。翌四年五月、刑法官を廃して司法省となし、之等劍客は皆解雇せられたり。此の時代の地方官廳に於ける劍術も、概ね中央政府のそれと同じ運命なりしを以て、劍を以て世に立つの途全く絶え、古来武士道の表徴として其の精神と共に長き歴史を有したる武技は、其の命脈を断絶するかの観ありしも、明治七年東京鍛冶橋に警視廳を設置せられて、東京府巡査は帯劍することとなり、続いて明治十年の西南の亂には、警視廳より選出せられたる抜刀隊の功を奏せしを以て、西洋利器のみにては満足する能はず、明治十二年警視廳は巡査に劍術を課し、斯道の大家梶川義正・上田馬之助・逸見宗助等は招かれて之が師範となり、時の総監は武術の奨励に力を注ぎ、當時名のある劍士數多を招きたるにより柿本清吉・得能實四郎・三橋鑑一郎・阪部大作・眞貝忠篤・兼松直廉などの諸劍客は何れも警視廳に入り講武に力を致し、警視廳の劍術黄金時代の因は此の時醸成せられたるものなり。 警視廳は、更に斯道奨励の爲め、明治十三年、近縣より劍客を集め、初めての撃劍大會を催し、三本勝負による試合を行ひたるを始めとし、十七年には各府縣より知名の劍士を集めて、向ヶ岡彌生社に全國的の撃劍大會を催し、翌十八年には彌生社内に彌生神社を建立して殉難警察官を奉祀し、其の招魂祭には武技を演じて之を奉納し、明治十九年には警視廳のみの武術大會を彌生社に於て催す等、其の技を試すの機を與へ、又梶川義正・上田馬之助・逸見宗助・得能關四郎・眞貝忠篤等の諸劍客は各流の粋を選びて警視廳流なるものを編成し、昔時の服装と異りたる洋装帯劍の警察官にも進退操縦宜しきに合ふものとなし、総て此の新法に準ずべき旨を定めたり。高橋先生の記録によれば、此の新制定の警視廳流撃劍形は次の如きものなり。 第一 八相 直心影流 第二 變化 鞍馬流 第三 八天切 寶山流 第四 巻落 立身流 第五 下段ノ突 北辰一刀流 第六 阿呼 淺山一傳流 第七 一二ノ太刀 示現流 第八 打落 無念流 第九 破折 柳生流 第十 位詰 鏡心明智流 尚警視廳流居合として其の記録の残れるものを見れば 第一 前腰 (正面) 淺山一傳流 第二 夢相返 (正面ヨリ後) 神道無念流 第三 廻リ掛 (正面ヨリ左) 田宮流 第四 右ノ敵 (正面ヨリ右) 鏡心明智流 第五 四方 (正面ヨリ左右) 立身流 (註)警視廳流柔術形 此と時を同じくして制定せられたる柔術形並に世話掛人名次の如し 第一 柄取 第二 柄止 第三 柄搦 第四 見合取 第五 片手胸取 第六 腕止 第七 襟投 第八 スリ込 第九 敵ノ先 第十 帯引 第十一 上頭 柔術世話掛(明治二十一年六月) 警部補 久富鐵太郎 本署 中村半助 同 上原庄吾 同 奥田松五郎 同 鈴木孫八郎 同 金谷良元 同 佐村正明 更に警視廳は新たに二級より七級に至る階級を定めたり。之を昔時の階級に比すれば左の如し 警視廳 新階級 奮階級 二級 名人 三級 免許 四級 目録 五級 切紙 四、五、六級は各上中下に分つ かくして當時に於ける斯道の達人、大家は皆集まりて警視廳に在り、一時は四級以上の劍士の數五百に達し、全國劍術の大殿堂の観を呈したるを以て、斯道に志す者は、皆警視廳に参して其の技を練り修行を積むの有様なりき。 地方官廳に在りても警視廳に倣ひ、明治七年頃滋賀・佐賀両縣が警察官に劍術を課したるを始めとして明治十三・四年頃よりは他の府縣も之に倣ひ、明治十三年、時の姫路警察署長川島信行、大阪府に轉ずるや、高橋先生に大阪府警察師範たらんことを請へるを以て、先生は大阪府に奉職せらるることとなれり。依て明治十三年十二月十五日附を以て四等巡査を仰付けられ、西長堀警察署詰を命ぜらる。時に先生二十二歳なり。 先生大阪に留まること三年、其の間公務の余暇、鏡心明知流の大家秋山多吉郎の道場に於て、場主秋山と技を角し術を磨き、且つ其の門弟を指南せられたり。 : 四、警視廳奉職 : (P71〜) 之によるも警視廳に於ける撃劍世話掛として高橋先生が如何に重用せられたるかを知る得べく、又守衛掛として警察本署詰なりし爲め他の修行者より有利なりしものの如し。即ち梶川・上田・逸見の名劍客は武術科の取締として本署に在り、梶川老劍客よりは主として形を、上田・逸見の両名手には劍技を學び、或は之等先輩の貴重なる體験談を聞き、又劍法の口授口傳をも受けられたり。又屡々各警察署に於て催されたる方面會に出場し、兼松・阪部・下江・渡邊・三橋・柿本の如き劍豪と技を闘はされたり。 當時、高橋・川崎の二範士と共に警視廳の三羽烏と称せられたる高野範士は、此の方面會に就いて次の如く語られたり。 毎日午後から方々の警察に方面會と云ふものがあつて、高橋君や、私共は署の稽古を朝済まして、それが済むと、今日は此處に方面會がある、明日は何處に方面會があると云ふので、其の方へ行つて居りました。何時も私共三人が出ないと寂しいと云はれたものです。 : 「方面会」についてはいずれまた書く機会があろうかと思います。 |
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(P76〜) 明治二十一年六月警視廳撃劍世話掛たりし者及び其の階級を高橋先生の古き記録により見れば、
※名前に色がついている人は、明治18年10月弥生祭剣術試合出場者。 太字の人は、「1888年(明治21年)頃の警視庁武術世話掛」(写真)に写っている人。 括弧書きは他の資料に見る表記の異動です。 もちろん原典にこのような加工はありません。 |
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六、警視廳時代の劍士 (P78〜) 高橋先生の英名録には明治二十年より二十二年迄屡々警察本署に於て試合せりとの附記あり、當時警視廳の撃劍世話掛並に助教たりし者を警察署別として擧ぐれば (高橋先生の英名録より)
※色、太字、括弧書きの意味は前記の通り。 もちろん原典にこのような加工はありません。 以下は76ページからの一覧にはありながら、ここでは名前がなくなっている人。
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