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明治17年1月 起倒流柔術発会 |
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読売新聞 明治17(1884)年1月19日朝刊 ○柔術の發會 明後二十日の午前九時より芝紅葉館の廣庭にて起倒流の柔術者奥田松五郎氏が柔術の發會を催されるにつき當日ハ同流ハ勿論天神眞養流、澁川流、關口奮眞流、揚眞流の人々が残らず出席して花やかな仕合を試みられる由にて有志の者にハ會主より切手を渡して縦覧を許し切手出切後に申し込む者へハ紅葉館の切手にて縦覧を許されるといふ 三島通庸関係文書 https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/mishimamichitsune.php 『三島通庸関係文書目録』(憲政資料目録第11)国立国会図書館編刊、1977 https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/tmp/index_mishimamichitsune.pdf 書翰の部 : ●二三八、 野辺地尚義 ○1 明治一七年 一月 日 起倒流柔術発会案内 (付)出席人名外 四枚 (ファイルのP36) 来ル二十日奥田松五郎氏 本館庭上ニ於テ起倒流柔 術發會被相催別紙人名其 外門弟中出席試合被致候 間若シ御閑暇モ候ハバ御 遊覧有之度奉存候不備 紅葉館幹事 十七年一月 野邊地尚義 (来たる二十日、奥田松五郎氏、本館庭上に於いて起倒流柔術発会相催され、別紙人名其のほか門弟中出席試合致され候間、若し御閑暇も候はば、御遊覧これ有りたく存じ奉り候、不備) |
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明治十七年一月廿日 於芝公園紅葉館 柔術發會縦覧證 一名限 明治十七年一月廿日 自午前九時 起倒流柔術發會出席人名 至午後三時 天神眞陽流 磯又右衛門 井上敬太郎 市川大八 冨塚源之助 吉田千春 田村慶次郎 加納治五郎 高橋萬吉 宮本富之助 戸澤徳三郎 大津善四郎 書上芳太郎 村杉増太郎 村松正次郎 警視附 澁川流 久富鋳太郎 (※正しくは「鐵太郎」か) 關口奮眞流 中村半助 仝 上原庄吾 楊眞流 金谷七之助 楊眞流 安住喜忠 天神眞陽流 森鋳貫 楊眞流 松平義清 鈴木忠恕 關口奮眞流 藤田 (※苗字のみで名前なし。藤田賢希か) 楊眞流 高橋 (※苗字のみで名前なし。高橋吉政か) 仝 高木義高 仝 永原勝利 起倒流 飯久保鍬吉 吉田直藏 青柳熊吉 信太歌之助 内藤信忠 起倒流澤田武治門弟 會主 奥田松五郎 幹事 堀口熊次郎 梯重行 椙江新平 |
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ウィキペディア フリー百科事典 紅葉館 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E8%91%89%E9%A4%A8 野辺地尚義 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E8%BE%BA%E5%9C%B0%E5%B0%9A%E7%BE%A9 嘉納治五郎は天神真楊流、次いで起倒流を学び、明治15(1882)年には講道館を開いていますが、ここでは天神真楊流の一員として名を連ねています。警視庁武術世話掛と思われる人々(警視附)も同席しています。講道館から試合に出た人もいたのでしょうか。 会主の奥田松五郎は、新撰組の生き残りと称していたそうですが年齢的には怪しい。ただし沖田総司の姪、または姉の夫の妹が奥田の本籍地に住んでいたという事実があり、沖田総司と何らかのつながりはあったのではないか、とのことです(太田俊穂「北方史の残映 後藤寿庵から宮沢賢治まで」(牧野出版、1977))。 メニューページ「警視庁武術世話掛」へ戻る |