明治21年5月 各流柔術試術会

 

 

読売新聞 明治21(1888)年5月15日朝刊

○柔術 學習院教頭文學士加納治五郎氏をはじめ吉田直藏、久富鐵太郎、上原庄吾、中村半助、鈴木孫八郎 金谷元良等有名の柔術家が發起にて柔術ハ精神を煉磨し身体發育に適當なるものなれバ其術を世に廣めんと計畫中なりしが何分にも世間にてハ此術を危険のものと思ひ又稽古場なくてハならぬものと思ふより此術に志ざす者少なけれバ簡便にして一定の術を擇み定めんと加納氏の自宅富士見町一丁目の弘道館に會して各流の技術を比較し長所を採て危険なき一法を工夫されたれば近日其の試術の第一會を開かるる由

 

 明治17年の「起倒流柔術発会」では天神真楊流の一員として名を連ねるに過ぎなかった講道館の嘉納師範ですが、4年後のこの記事では既に警視庁柔術世話掛の大家連に対して指導的な立場にあるようです。

 翌明治22(1889)年5月には、大日本教育会常習会の席上において「柔道一斑並に其教育上の価値」と題した講演を行い、柔術界のオピニオン・リーダーとしての姿勢を世に華々しく示すこととなります。

 ただし、警視庁の柔術が完全に講道館柔道のみとなるのは、まだまだ先だったようです。

 

東京朝日新聞 明治35(1902)年7月20日朝刊

●警視廳の柔術改良 従来警視廳及び各警察署にてハ服務巡査中より武術上達の者を選抜し演武世話掛りとして武術指南の任務を命じ毎年厳冬酷暑の時を除き春秋二季の候を以て各警察署及び本廳とも同時に武術の練習をなす例なるが何れも世話掛りの位置に在る者ハ各自先師の道を傳へて流派を異にし就中柔術の如きハ極めて區々にして各署の統一を缺き時としてハ不都合の場合尠からざるを以て警視廳部内にハ此度柔術統一の改良説起り豫て演武道場にて有名なる小石川區下富阪町の日本弘道館主加納治五郎氏の教授法に依り去る十四日より日々各警察署の演武世話掛を警視廳に招集し午前九時より午後二時まで第一教授より第五教授まで数十種の柔術を教授する事となり今後二週日の後にハ全部の教授を結了する豫定にて各署にてハ當秋の演武始めより柔道改良の實を擧げる手筈なりと云ふ

 

 

 

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