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明治18年10月 弥生祭武術大会 |
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読売新聞 明治18(1885)年10月8日朝刊 ○生魂社祭典 向が岡彌生舎内へ警視廳にて今度新築せられし生魂社ハ彌々落成せしに付同廳創立以来巡査にして人民保護のため盡力し暴徒或ひハ強盗などに出遭ひ非命の死を遂げしものの霊魂を該社へ鎮めて来る十三日十四日の両日大祭を行ひ當日ハ撃剱柔術射的花火等を施行せらるると云ふ 読売新聞 明治18(1885)年10月13日朝刊 ○彌生神社祭典 今明の両日ハ向が岡彌生神社の祭典につき警視廳の官吏方にハ両日に分ちて参詣あり且つ両日とも奉納の撃剣、柔術、槍術、射的および有志相撲等を催すといふ 三島通庸関係文書 https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/mishimamichitsune.php 『三島通庸関係文書目録』(憲政資料目録第11)国立国会図書館編刊、1977 https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/tmp/index_mishimamichitsune.pdf : 書類の部 : ●警視庁関係 ○五二四、 警視庁一般 ■8 弥生神社祭典関係書類 ■イ 弥生神社祭典紀事(同文二部) 明治一八年一二月二四日 活版 一綴 (ファイルのP124) ○明治十八年十月十三日彌生神社祭典式次第 一當日午前第九時祭典式場装飾 一同午前第九時三十分祭主(警視総監)以下局部署院諸員(総員ノ半數)向ヶ岡彌生社ニ参集各定メノ場所ニ着床 一各署巡査看守(非番)ハ其署ニ集合シ外勤警部、警部補又ハ看守長、看守副長付添午前第九時三十分迄ニ同社ニ参集各定メノ場所ニ整列 但進退等ノ號令ハ便宜外勤警部補又ハ看守副長ニテ爲スヘシ 一午前第九時三十分斎主以下祭官着床 此際奏楽 先祓主進テ祓詞ヲ白ス 再拝短手 次大麻行事 次神殿ニ切麻ヲ散ス 次祭官進テ殿祭降神詞ヲ奏ス 再拝短手 次神饌ヲ供ス 此際奏楽 次祭官殿祭詞ヲ奏ス 再拝短手 次散米ヲ散ス 次神饌ヲ撤ス 此際奏楽 次祭官進テ拝 再拝短手 次霊主ヲ正殿内ニ安置ス 豫メ別所ニ居置テ祓式ノ際修祓ス 次斎主進テ幽冥大神ヲ拝シ短称辞ヲ唱 再拝短手 次招魂式 此際奏楽 警蹕二聲 次幣帛ヲ捧ク 次神饌ヲ供ス 此際奏楽 次斎主進テ祝詞ヲ奏ス 四拝八開手 次玉串ノ案ヲ据 次祭主(総監)玉串ヲ供シテ拝 此際奏楽 次奏任官幷准奏任御用掛及祭典掛員禮拝 次各署外勤警部、警部補及巡査一方面ヨリ順次毎署一斉ニ禮拝 次監獄看守長、看守副長及看守毎分署一斉ニ禮拝 次局部署院判任官以下禮拝 次死者遺族禮拝 次玉串ヲ撤ス 次神饌ヲ撤ス 此際奏楽 次斎主進テ閉扉式 再拝短手 此際奏楽 次退場 此際奏楽 右畢テ後チ神酒及赤飯ヲ給與ス 當日奉納 一剱術 一柔術 一槍術 一射的 一有志角力 午后第四時閉場 同十四日祭典式次第 一當日午前第九時祭典式場装飾 一同午前第九時三十分祭主(副総監)以下局部署院諸員(総員ノ半數)向ヶ岡彌生社ニ参集各定メノ場所ニ着床 一各署巡査看守(非番)ハ其署ニ集合シ外勤警部、警部補又ハ看守長、看守副長付添午前第九時三十分迄ニ同社ニ参集各定メノ場所ニ整列 但進退等ノ號令ハ便宜外勤警部補又ハ看守副長ニテ爲スヘシ 一午前第九時三十分斎主以下祭官着床 此際奏楽 次大麻行事 次斎主進テ開扉式 再拝短手 此際奏楽 次幣帛ヲ捧ク 次神饌ヲ供ス 此際奏楽 次斎主進テ祝詞ヲ奏ス 次短称辞ヲ唱フ 四拝八開手 次玉串ノ案ヲ据 次祭主(副総監)玉串ヲ供シテ拝 此際奏楽 次奏任官幷准奏任御用掛及祭典掛員禮拝 次各署外勤警部、警部補及巡査一方面ヨリ順次毎署一斉ニ禮拝 次監獄看守長、看守副長及看守毎分署一斉ニ禮拝 次局部署院判任官以下禮拝 次玉串ヲ撤ス 次神饌ヲ撤ス 此際奏楽 次斎主進テ閉扉式 再拝短手 此際奏楽 次退場 此際奏楽 右畢テ後チ神酒及赤飯ヲ給與ス 當日奉納前日ニ同ジ 午后第四時閉場 ○参集者心得 一禮拝ハ壱人ツツ定メノ場所ニ於テ姿勢ヲ正シ直立シ右手ニ帽ヲ脱シ之ヲ右足ノ外部ニ垂レ左手ヲ左足膝上ニ當テ體ヲ前ニ屈メ禮拝スヘシ 一各署巡査、看守ハ外勤警部、警部補又ハ看守長、看守副長付添號令ニ従ヒ二列側面ニテ進行シ社前ニ於テ正面ニ整列一斉ニ禮拝スヘシ 一神前ニ於テハ始終整粛ヲ守リ濫リニ放言雑話シ或ハ進退ノ列ヲ乱シ又ハ交互雑沓スル等決テ不敬ノ所爲アル可ラス 一総監以下奏任官、准奏任御用掛及判任官幷准判任御用掛、祭典掛員ハ通常禮服着用ノ事 一各署外勤警部以下(内勤ハ除ク)及看守長以下略服着用ノ事 一局部署院詰ハ其総員ヲ折半シ一日ニ一半ツツ参集スヘキ事 但奉納縦覧ノ爲メ入場スルハ各自随意タルヘシ 一入場券ヲ所持セサル者ハ入場ヲ許サス 但警視廳徽章アル服ヲ着スル者ハ此限ニアラス |
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「※→」は他の資料に見る表記の異動です。 両日とも出場者に講道館入門者の名前は見当たりません。弥生祭奉納武術試合はその性質上、警察関係者以外の出場はあまりなかったのかもしれません。横山作次郎が明治19年9月に柔術世話掛になっており(「柔道」柔道会本部、1916年9月号記事「故八段横山作次郎氏略歷」)、講道館からの警視庁入りはそれが最初で、それに次ぐのが戸張瀧三郎、山下義韶であろうかと思います。 追記2016.8.21 10月14日の剣術の部に「藤田五郎 小泉則忠」の組み合わせが見えます。藤田五郎は、新選組の斎藤一の改名とのことです。 メニューページ「弥生祭武術大会」へ戻る |