明治21年1月 弥生社天覧武術大会

 

 

読売新聞 明治21(1888)年1月12日朝刊

   宮廷録事

○行啓 皇后宮にハ来る十六日午前十時御出門芝公園内彌生社へ行啓在せらるる旨を昨日仰せ出されたり

 :

○天覧相撲 来る十四日彌生舎に於て天覧相撲があるに付昨日警視廳より山下氏が角觝協會へ當日の手続と相談の爲め出張され此日ハ大相撲十日めなれど休む筈なりと

 

 警視庁の「山下氏」は、講道館の山下義韶(のちの十段)かとも思いましたが、違うようです。

 

宮内省監修「昭和天覧試合 : 皇太子殿下御誕生奉祝」(大日本雄弁会講談社、1934)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1232699/428

山下義韶について、明治22年警視庁に奉職柔道世話係となる、とあります。

 

 「職員録」によればこの時期、警視庁第一局次長を山下房親三等警視が務めていたようです。

 

 昨明治20年秋に予定されて延期された天覧武術大会が、弥生祭とは関係なく(式次第に祭祀はありません)、年明けに実現の運びとなりました。

 

 

東京日日新聞 明治21(1888)年1月15日朝刊

○彌生社行幸 昨日は豫て前號に記せし如く芝公園内の彌生社へ 行幸在らせられたり此日同社の装飾等は去年十一月の御設けと大同小異なるのみ 聖上には午後一時四十分着御在せられ此時楽隊の奏楽あり暫時く便殿にて御休憩在せられ総て御設けの玉座へ出御成せられ程なく玄関前に設けたる土俵に於て柔術の立合十組あり此技終りて撃剱の試合十組右終りて再び柔術の立合一組あり特に一組を爰に残して立合しを見れば先生株とでも称すべき人となるべく其立合も何となく魁を出たる如く思はれたり夫より剣士百名程宛東西より出て旗奪ひあり其勝負は西一度東二番の勝なりし此時入御在しまし暫時にして出御在せられ御前に於ての晴角力は左の如くなり

(後略)

 

「再び柔術の立合一組あり特に一組を爰に残して立合しを見れば先生株とでも称すべき人となるべく其立合も何となく魁を出たる如く思はれたり」

 「姿三四郎」の作者、富田常雄は、この試合が有名な横山作次郎対中村半助だったのではないか、と推測しています(富田常雄「講道館 姿三四郎余話」春歩堂、1955)。しかし他紙を読むとそうではないことがわかります(横山作次郎自身は後年その試合を「明治20年の頃」と語っています)。

 

 

読売新聞 明治21(1888)年1月15日朝刊

   宮廷録事

○御慰み 皇后宮にハ明十六日芝公園内の彌生社へ行啓あらせらるるに付警視廳にて御慰みのため歸天斎正一、柳川一蝶斎の手品及び力持等を催ほさるるやに聞けり

 

○彌生舎行幸の御模様 曩(さき)に仰せ出されたる如く 聖上にハ昨日午後一時赤坂假皇居 御出門御陪乗ハ吉井宮内次官供奉ハ米田毛利、廣幡の三侍従、伊藤総理大臣、黒田農商務大臣、山縣内務大臣、佐々木宮中顧問官其他數名にて午後一時二十分ごろ彌生舎へ着御在せられたり同舎にてハ警視廳巡査の撃劍並びに体操等を叡覧に供へ余興に力士の取組を爲す筈につき同舎構内に土俵場を設けて其正面に玉座を設け其左の方に陸軍楽隊の奏楽所を設けたりさて玉座に着御在せらるるや直に畳を敷つめたる土俵場に於て柔術八番剱術十二番の試合あり此内めざましかりしハ柔術にて中村半助の二人掛り(大和田豊次西純貞勝劍術ハ竹中斧太郎(太刀)大河内三千太郎(鎖鎌勝の立會なり又々番外にハ柔術に久留鐵太郎中村半助(勝)劍術に上田美成逸見宗助(勝)の面白き試合あり了りて各警察署巡査四百名の野試合三番あり白の方ハ川端方面監督赤の方ハ長谷方面監督指揮官となり初番は白、二番三番ハ赤の勝なり是より相撲となれバ場内の観覧席を區画し青竹を以て力士の花道を作り之に櫻の花簪五十本を植ゑたるハ各番の勝力士に與へらるる賞品なり扨(さて)万事の支度も整ひ力士土俵に上れバ待ツたなしにていさぎよく立上り其の中に就て重なる所を記せバ唐辛(たうがらし)に芳の山ハ立上り左四ツ唐のタスキ残りて投げ打ち合よりハタキ込み唐辛の勝○平の戸に泉灘(いづみなだ)ハ突合泉オヨギ込み敵の左足を引き渡し込む所を預けて突き倒し平の戸の勝○若港に眞鶴ハ突出して若港の勝○八幡山に相生(あひおひ)ハ敵の右手を引張り込み突出して八幡山の勝○鬼が谷に千年川ハ突合千年引張込み残りて鬼一本背負に行く所で腰砕け千年川の勝○眞力(しんりき)に綾浪(あやなみ)ハ左ざしの寄り切にて綾浪の勝○三役となり鶴が濱に嵐山ハ突き合鶴危き所有しが敵の寄る所をハジキて見事鶴が濱の勝○海山(かいざん)に西の海ハ海二本ざし西閂にてセメル内ツキ膝有て海山の勝○大鳴門に一の矢ハ手車引ホグレ右をさしスクヒ投げ大鳴門の勝○番外御好(おこのみ)相生に若港ハ突さし相左さしスクヒ残りハナレて一本背負にて若港の勝○小錦に鬼鹿毛ハ左四ツハナレて手四ツより又左四ツ蹴返して鬼鹿毛の勝○八幡山に平の戸ハ左四ツ下手投げにて八幡山の勝○若港綾浪ハ右四ツ出し投て綾浪の勝○鬼が谷に眞鶴ハカタスカセにて鬼が谷の勝○相生に鶴が濱ハ鶴右さしより二本さし寄倒し鶴が濱の勝○嵐山に八幡山ハ互に引かけ引廻しショツキリの如くなりしが小手投残りて突出し嵐山の勝○海山に一の矢ハ右四ツ切返して海山の勝にて打結び還幸あらせられしハ五時三十分頃なり

 

 

 中村半助は明治18年10月14日と同じく二人掛けを行った後、番外で久富鉄太郎と師範同士の試合を行い、勝利したようです。

明治21年1月14日の天覧試合について、東京日日新聞は柔術・剣術各十組、と書いていますが、読売新聞の柔術八番・剣術十二番、が正しいのではないかと思います。

 

 

東京日日新聞 明治21(1888)年1月17日朝刊

○宮廷録事 去十四日は曩(さき)に仰出されし如く午後一時御出門芝公園内彌生社へ 行幸先づ便殿へ御着次に 御覧所へ 出御警官の柔術劍術旗取野仕合及相撲等 御覧畢て御晩餐皇族大臣其他へ御陪食仰付られ午後八時四十分還幸相成りたる由 

 

 

読売新聞 明治21(1888)年1月18日朝刊

   宮廷録事

○行啓 皇后宮ハ一昨十七日曩(さき)に仰せ出されし如く午前十時御出門芝公園内彌生社へ行啓柔術、劍術、及び西洋手品、力持、梯子登、旗取、野仕合等御覧薩摩琵琶數曲を聞召され午後五時三十分頃還御在せられたる由

 

一昨日ですので17日ではなく16日が正しいようです。

 

 

三島通庸関係文書

https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/mishimamichitsune.php

『三島通庸関係文書目録』(憲政資料目録第11)国立国会図書館編刊、1977

https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/tmp/index_mishimamichitsune.pdf

 :

書類の部

 :

●警視庁関係

○五二四、 警視庁一般

11 弥生社落成式関係書類

■ヘ 柔術・剣術組合セ(同文七部) 明治二一年一月一六日 一部活版 一綴

(ファイルのP124)

 

明治二十一年一月十六日於芝公園地彌生社柔術劍術組合

柔術組合

 

 

 

 

 

壱番

加世田叶

弐番

岩城勇然 ※1

 

西

隈本實行

 

西

日高喜之助

三番

牧野善次

四番

中島成善

 

西

安藤義信

 

西

中村敬龍

五番

鈴木忠恕

六番

澁江泱

 

西

大久保忠徳

 

西

相馬順三郎

七番

大竹森吉

八番

青島正勝

 

西

富山円

 

西

相田豫五郎

劍術組合

 

 

 

 

 

壱番

武藤迪夫

弐番

吉田信夫

 

西

沓木鐐次郎

 

西

石川正秀

三番

吉田誠聴

四番

高橋吉正

 

西

山田祐之

 

西

古谷武

五番

坪井廣次

六番

飯田角太郎

 

西

服部精

 

西

島崎次郎

七番

蜂谷松藏 ※2

八番

小林定之

 

西

辻斧吉

 

西

大河内三千太郎 ※3

九番

小崎豊

拾番

田中努

 

西

眞田幸照

 

西

秋友幸三郎

拾壱番

加藤寔明

拾弐番

眞具忠篤 ※4

 

西

小泉則忠

 

西

三橋鑑一郎

1 筆書きの一覧では「岩城勇熊」。「職員録」でも「熊」。

2→峰谷松造?

 

 

3→大河内三與三郎?

 

 

 

 

 

4 真貝忠篤

起倒流柔術發會出席人名

 

 

 

1888年(明治21年)頃の警視庁武術世話掛」(写真)にいる人(剣術出場)

それ以外で高橋範士記録に警視庁撃剣世話掛・助教(明治20〜22年)とある人

 

職員録. 明治20年(甲) 11/30現在

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779755

337(コマ番号179)に、吾妻橋警察署の警部補「岩城勇熊」の記載があります。

 

 大家連の多くは14日の天覧試合の方に専念したようで、16日の皇后行啓の大会にはあまり出ていません。

 講道館からは加世田叶(明治20年入門)という人が出場していますが、出身が鹿児島ということで、元から警察官だった人かもしれません。14日には横山作次郎らが出たかもしれませんが、残念ながらこの日の詳細はわかりません。

16日の柔術出場者のうち、大久保忠徳と富山円は警視庁撃剣世話掛・助教だった人です。大竹森吉は戸塚派揚心流で、警視庁にいたとは聞きません(剣術と比べて柔術については資料が少ないため、はっきりとは言えませんが)。同流の柔術世話掛は金谷元良、好地円太郎、山本欽作がいますが、警視庁外からの参加もあったとすると14日に他にも誰か出たかもしれません。

 

追記2016.8.14

14日の天覧試合が、番外を除いて柔術8組とすると、その内の1組が中村半助対大和田豊次・西純貞勝の二人掛り、残りが通常の試合だと7組14人が出場枠。

写真「1888年(明治21年)頃の警視庁武術世話掛」に写っている内、柔術の方と思われる人が中村半助を除いても20人近くいます。全員が明治21年1月時点で奉職済みだったとは言えませんが、講道館の横山作次郎のように写っていないが、いたはずの人もおり、警視庁外から出場する余地はあまりなかったかもしれません。

 

 

凌霜剣友会編「剣道範士高橋先生八十年史」(凌霜剣友会、1940)

 

天覽試合と先生

 :

   三、彌生社に於ける天覧試合 (P87〜)

 明治二十年六月、芝彌生社に於て天覧撃劍試合を催さる。明治天皇は、照憲皇太后と御同列にて彌生社に御臨幸遊ばされ、彌生社内の土俵上に假設せる道場にて十二組の試合を天覧遊ばされたり。警視廳奉職中の高橋先生は特に選ばれて此の十二組の個人試合に出演し、時の警視廳四級にして水上署劍術世話掛なりし野津元三郎と試合し晴れの御前にて青年劍客の名を擧げられたり。

 

因に其の當時は試合十二組を天覧に供し奉るを常とす。此の十二組に選抜せらるるは其の技術衆に優れたる者にして劍客として最高の名誉たり。

試合を十二組とせしは一年十二ヶ月に象る。かの寛永御前試合に其の源を發せしものなりと(高野範士の談による)

 

 此の日十二組の天覧試合を終り、彌生社の芝生廣場に於て、警視廳を始め都下官廳より選ばれたる者三千名は東西二組に分れて大野試合を演じ之を天覧に供し奉れり。東西両軍は各五百名を決死隊と称して攻撃に當らしめ、千名は旗下に在りて之を守り壮烈なる大決戦を演じたるに、両陛下は殊の外御興ありげに玉座を離れて天覧遊ばされたりと。

 

 もちろん正しくは明治21年1月です。野試合の出場者数は資料によってまちまちのようです。

 

 

追記2016.9.4

明治21年1月14日弥生社における柔術・剣術天覧試合の組み合わせと勝敗がわかりました。別ページ郵便報知に見る弥生祭武術大会に書きましたのでぜひご覧下さい。

 

 

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