その後の弥生祭武術大会

 

 

読売新聞 明治21(1888)年5月23日朝刊

○彌生社の大祭 来る廿七廿八日の両日ハ芝彌生社の大祭なれバ撃劍並に角力の催しあり

 

東京日日新聞 明治21(1888)年5月23日朝刊

○彌生社祭典 警視廳にては来る二十七八日の両日芝公園にある彌生社の祭典を執行せられ両日共巡査の撃劍及角力の催しあり其前廿六日にも同所に於て角力の催ほしありとこれは黒田大臣を始め各大臣を招かるる餘興にて此日陣幕久五郎の土俵入もありとか聞く

 

 

読売新聞 明治22(1889)年5月31日朝刊

○彌生社の祭典 芝公園地の彌生社の祭典ハ例年十一月に施行されしが本年より爾来六月と改正され来月五六の両日に祭典を執行さるる由にて當日ハ警視の官吏一般参拝せられ餘興にハ角力撃劍松旭齊天一の手品等あり皇族大臣其他貴顕紳士等を招待さるるよし

 

読売新聞 明治22(1889)年6月4日朝刊

○彌生社の祭典 前號に記せし如く芝公園地の彌生社の祭典ハ明五日明後六日の両日執行に付き警視廳官吏ハ午前九時迄に参拝し同十時より撃劍柔術野試合及び角力等ハ晴雨とも執行の筈なりと

 

東京朝日新聞 明治22(1889)年6月6日朝刊

●彌生社の相撲 豫て記載したる如く昨五日彌生社の例祭に付き大相撲を始め撃劍柔術或ハ手品等の催しあり有栖川、小松、伏見の三宮黒田、大山、松方、三條、榎本、山田、後藤等の各大臣、安藤議官、吉井、芳川、青木の三次官徳川公爵、伊藤議長其他貴顕の来観も多く頗る盛況なりし當日の相撲勝負ハ左の如し

(後略)

 

 当時はどの新聞も相撲報道には力を入れている印象を受けます。弥生祭も相撲があると記事は相撲の記述で長くなります。

 明治23(1890)年、弥生神社は鍛冶橋際の警視庁構内に遷座されました(「警視庁武道九十年史」警視庁警務部教養課、1965)。

 

東京朝日新聞 明治25(1892)年11月1日朝刊

●彌生社祭典 警視廳の彌生社にてハ来る十四十五の両日を以て祭典を執行し十四日ハ撃劍十五日ハ柔術の仕合を催すよし

 

読売新聞 明治25(1892)年11月9日朝刊

○彌生社祭典 警視廳に於てハ来る十四日午前九時より彌生社祭典を擧行し大撃劍會を催す趣きなるが其立合中にハ武久警視等も加はり居ると云ふ

 

読売新聞 明治25(1892)年11月14日朝刊

○彌生社の撃劍 今日ハ警視廳構内なる彌生社の祭典を行はるるに付午前九時より警官一同参拝し夫より各警察署巡査ハ撃劍の仕合を爲し優者にハ賞品を與ふるよし

 

 

読売新聞 明治26(1893)年10月4日朝刊

●弥生社の祭典 警視廳にてハ例年の通り本月十三・十四両日構内彌生社の祭典を執行するに付各警察署詰警部・巡査一同をして両日に参拝せしめ尚ほ撃劍・柔術の試合を催す由

 

読売新聞 明治29(1896)年11月10日朝刊

●警視廳の撃劍柔術大仕合

今明両日警視廳に於てハ職務に斃れたる警官の霊を祀れる彌生社の祭典を執行する由にて當日ハ府下警察部内の劍客巡査を招集して大仕合を催す筈なるが本日ハ撃劍の仕合にて其番組ハ二百番あり午前八時より開始し午後五時頃に終る勝負ハ何れも三本勝負にて得能關四郎氏審判となり勝者ハ例年の如く反物の賞典を與ふるとぞ尚ほ明日ハ柔術の仕合にて各高等官を始め諸劍客へも案内状を發したりといふ

 

 

読売新聞 明治40(1907)年10月12日朝刊

●彌生社祭典 警視廳にては来る十八日午前九時(雨天順延)彌生社祭典を執行し同日及び十九日には例に依り撃劍柔術の試合ある由にて遺族は成るべく時刻前に参集せらるべしとのことなり因に彌生社は警視廳取拂に付き青山墓地に移したるを以て當日は同廳中庭に假社を設くる筈なりと

 

 

 

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