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郵便報知に見る弥生祭武術大会 |
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郵便報知新聞 明治18(1885)年10月13日朝刊 ○生魂社祭典 今度警視廳に於て向ヶ岡の彌生舎中へ造營して今明両日祭典を行はるる生魂社へは故川路大警視を始め同廳御雇佛國人故グロース氏權少警部故赤塚武盛氏外警部巡査にて四十五名押丁廿五名小使五名消防夫十三名を祀り籠められしものにて當日祭典の順序ハ午前九時祭典式場装飾同九時卅分祭主(警視総監)以下同廳局部署等の諸員参集各々着床す各署の巡査看守(非番)は其署に集合し外勤警部同補及び看守長同副長等同時に参集し式場に整列す此時祭官等出場して奏楽中祭典の諸式を執し祝詞を奏す了て総監以下順次に禮拝す夫より死者の遺族等禮拝す此人員凡そ三十餘名にて祭後一同へ~酒赤飯を給さる當日生魂を慰する爲めの奉納は劍術柔術槍術の試合射的及び有志(素人)の相撲等にて午後四時散解の筈なりしと但し切符持参の者の外は入場を許されぬよし 明治18(1885)年10月14日朝刊 ○生魂社 前號に記せし如く昨十三日向ヶ岡なる彌生舎内の生魂社の祭典を執行され警官は勿論彌生舎射的會社員の諸氏及び西郷参議等も参場され式の如く祭典禮拝を畢りし後撃劍の試合あり素人相撲は警部巡査にして腕に覚へのある人々が立合ひ飛入り勝手次第に付萬一柔術の手を出たす者あつては怪我などあらんとて行司には柔術に精しき者を撰ひ頗る面白き勝負ありて勇ましき事にてありしと 明治20(1887)年11月26日朝刊 ●彌生舎の大祭 本日は彌々芝公園内なる彌生舎の大祭を執行する都合なり今ま同所仕構の概略を記さんに表門の右手には撃劍場を設け同舎昇降口の前には相撲土俵場を築き舎前の廣場に東京電氣燈會社より出張して一基の電燈を据へ付け新築館の各室凡そ三十餘の電燈を點するの仕掛けあり園内には彌生~社と大書せる幟一對を押し立てり是れは川崎銀行より奉納せしものなり本日の餘興には撃劍及ひ野試合、力持を演する筈なり昨日午後より三島警視総監、高崎東京府知事、足立警察本部長、折山消防本部長等準備見分の爲め同所へ臨みたりと 明治20(1887)年11月27日朝刊 ●彌生舎の祭典 昨日は前號にも記載せしが如く芝公園内なる彌生舎にて祭典を執行せり同日午前九時より祭主日比谷~社~官田中大教正外數名か社前に於て式に従て祭典の禮を執行せり参拝者は三島警視総監を始め足立警察本部長、折田消防本部長、警視廳の高等官其他警視廳の爲めに死亡せし者の遺族等なりし、同舎の表門には大なる國旗を交叉し巡査之を警衛して猥りに入るを許さず鳥居前には數張の長提灯を高く吊し、拝殿入口の左右には五色の旗を飜へし又た其右手にハ赤羅紗の大幟を立てたり拝殿社殿には総て五色の幕を張り廻はし社前には楽隊所あり相撲の土俵場あり其の土俵場へ力士の入り込むべき花道には青竹の手摺を拵へ赤羅紗の幕にて四本柱の上部の外側を蔽へり當日は兩皇后宮の行啓御延引となりし爲め豫ねて用意し置きたる諸種の技藝は見合せとなり唯た餘興として三本勝負の撃劍の試合ありしのみなり其の劍客は警官の内より劍道に熟練したる者を選出せるものにて南北両組に分れて凡そ數十組の試合ありたり三島警視総監、足立、折田の西本部長等臨場して見物せり、本日は休祭にて明日の祭典には行幸あらせらるるに付き撃劍野試合、相撲、力持の餘興を催ふす都合なりと 明治20(1887)年11月29日朝刊 ●彌生舎の祭典 同祭典は昨日も執行せり當日ハ聖上の行幸は御見合せとなりしが明宮殿下は御成となれり各警察署の非番巡査は残らす参拝し拝観人は同社前より増上寺門前の邊に掛け山を爲し東照宮境内には撃劍士の担所を設け同所より赤白二様の襷にて社内に繰り込み豫定の如く撃劍野仕合又は角力等の催しあり頗る盛んなる祭典にてありし 明宮(はるのみや)殿下は後の大正天皇です。 |
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明治21(1888)年1月15日朝刊 ●彌生社御臨幸 聖上には兼て仰せ出されし如く昨日午後一時皇居御出門芝公園内の彌生社へ御臨幸遊はされたり今ま拝観せし儘當日の模様を記載せんに同社正門の入口には紫の幔幕を張り國旗を交叉し其右方の新館を高等官華族の休憩所となし其左方にある舊館を事務所に充て其前を力士の溜所新館の裏手一圓を劍客等の溜所となし彌生社の前に土俵を築き木羽を以て家根を葺き周圍の天井には赤き幕を張り其上を七五三にて飾り同社右方の櫻下を以て聖上叡覧の所となし外には赤き幕を張り内には金屏風を立廻せり又た其左方を高等官の観覧所右方は警官及ひ楽隊の詰所とす聖上には吉田次官の御陪乗にて一時四十分同社へ成せられ軈(やが)て設けの玉座に着かせ給ふや先つ左記九番の柔術と十三番の撃劍仕合を天覧に供せり 柔術の勝負左の如し
劍術の勝負左の如し
夫より詰合の巡査數百名は各々面小手に身を固め竹刀を携へ撃劍仕度の儘にて源平の二組に分れ旗奪ひを爲せしに最初は双方百人宛にて白軍の勝に歸し二回目は双方二百人宛にて惣人數四百人なり第一回は白軍の爲に勝を制せられしを以て赤軍は其前敗に懲り深く計る所ありしか全力を中堅に盡し之を死守せしを以て白旗二流は已に赤軍の奪ふ所となりたるも赤軍の中堅は尚ほ堅固にして赤旗二流は東風に翩々たり第三回は双方三百人宛にて是そ最後の一戰にて最も大切の勝負なれは双方の参謀官は互に軍儀を凝らせし事なるべきが白軍は脆くも敗蹟して遂に赤軍の為めに勝を制せられたり始め兩軍の相對するや指揮官の號令と一聲の鐘を合圖に各々其の軍を離れて敵陣に斬て掛り其一部は中堅の旗旌を守る譯なるか中には組打を爲すあり格闘を爲すなり竹刀相觸るの音は咄喊の聲と相和して四隣に響き就中其中堅を突き又之を拒く様の猛烈なる難戰苦闘の後ち大将は已に敵軍の手に落ち失望落膽して逃くる者激昂して尚ほ敵軍に突入するの状等其様實に實地の大戰を見る如く勇ましくも又た面白かりし右畢りしは三時過ぎにて夫より餘興として左の相撲取組ありたり尤も取組の際行司は素袍を着し年寄等も皆な紋付袴を着したり
右畢りしは五時十五分頃なりしか夫より聖上には同社に於て晩餐を召させられ同六時過ぎ御還幸遊されたり當日参場の方々は小松宮殿下を始め伊藤、黒田、山縣、大山、森、土方の各大臣其他宮内省の官吏各省の高等官等にして拝観の惣員は五千人以上と見受けたり |
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明治21(1888)年1月17日朝刊 宮廷録事 ○行幸 去十四日は曩(さき)に仰出されし如く午后一時御出門芝公園内彌生社へ 行幸先つ便殿へ着御次に御覧所へ出御警官の柔術劍術旗取野仕合及相撲等御覧畢て御晩餐皇族大臣其他へ御陪食仰付られ午後八時四十分還幸相成りたる由 : 雑 報 : ●彌生社行啓 皇后宮には兼て仰ふせ出されし如く昨日午前十時御出門にて芝公園内なる彌生社へ行啓遊ばされたり此日御陪乗には室町典侍、供奉には香川皇后宮太夫、三宮皇后宮亮、岡侍醫小倉權典侍、樹下掌侍、北島權掌侍、三上七等出仕、中東權命婦にして同所に於て力持手品等の諸藝を御覧遊されたりと 「御好み」はこの場合、明治天皇の指名による番外戦ということでしょう。将棋では江戸時代、幕府から扶持を受けていた将棋所が将軍の御前で指す「御城将棋」の際、公式戦の後に将軍の命で近習等と指した「御好み」対局の記録が残されています。 「1888年(明治21年)頃の警視庁武術世話掛」(写真)に写っている人の内、柔術では(恐らく)谷虎雄と、野村喜之助が出場者に加わっています。野村喜之助は講道館入門が明治20年で、恐らくその前に他流を修めていた人ではないでしょうか。明治19年に警視庁入りしたと言われる横山作次郎や、他の講道館の有名どころの名前はありません。 明治二十一年弥生社における天覧試合の内、剣術の一組は高橋赳太郎対野津元三郎であるとされていましたが、違っていたようです(郵便報知によれば高橋赳太郎は太田資通(道)と引き分け)。あるいは「剣道範士高橋先生八十年史」の編者が、対戦者を上下に記した記録を左右の並びが対戦者の組み合わせであると誤認したのかもしれません。 凌霜剣友会編「剣道範士高橋先生八十年史」(凌霜剣友会、1940) 天覽試合と先生 : 三、彌生社に於ける天覧試合 (P87〜) 明治二十年六月、芝彌生社に於て天覧撃劍試合を催さる。明治天皇は、照憲皇太后と御同列にて彌生社に御臨幸遊ばされ、彌生社内の土俵上に假設せる道場にて十二組の試合を天覧遊ばされたり。警視廳奉職中の高橋先生は特に選ばれて此の十二組の個人試合に出演し、時の警視廳四級にして水上署劍術世話掛なりし野津元三郎と試合し晴れの御前にて青年劍客の名を擧げられたり。 因に其の當時は試合十二組を天覧に供し奉るを常とす。此の十二組に選抜せらるるは其の技術衆に優れたる者にして劍客として最高の名誉たり。 試合を十二組とせしは一年十二ヶ月に象る。かの寛永御前試合に其の源を發せしものなりと(高野範士の談による) 時期はもちろん正しくは明治21年1月です。 メニューページ「弥生祭武術大会」へ戻る |