1915 「講道館物語」(読売新聞)

 

 

讀賣新聞 大正4(1915)年2月10日朝刊

 

學校及學生界

●講道館物語

▽今は昔創設當時の苦心

大江の源は渓流より起る、講道館柔道が其の昔未だ微々として振はなかつた時代を思ふと隔世の感がある、講道館祖

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△嘉納治五郎先生 が、此の道を起したのは明治十五年であつて、丁度先生が十四年の七月大學を卒業した翌年であつた、此の時、先生は學習院教授であつて、未だ獨身の書生上りだつたから、下谷の下稲荷町の永昌寺と云ふ寺に寓居して、其所の十二疊の座敷が書斎ともなり客間ともなり道場ともなつたのである。所が其の當時嘉納先生は、

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△齢僅に二十四歳 と云ふ年少なので、とても子弟が今日の様に來る筈が無い、僅か七八名の弟子が來てくれるので、先生は之れを虎の子の様にして先生の方から弟子に御機嫌を取つて柔道を教へたものだ、毎日座敷でズタンバタンをやるので、寺の僧侶は随分驚いた、之れではネダがぬける、迚(とて)もやり切れ無いと、

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△早速大々的抗議 を申込んだ、止を得ず、寺境の一隅にけちな道場を建て、益々弟子を養成する事に努力した、其時分やつて來たのは今日の文科大學長坪井九馬三先生だが神田邊の學校で有名な辰見小二郎と云ふ文學士だの住友の総支配人鈴木馬左也氏だの、専ら大學の學生が多かつた。其後移轉をして下谷の或る

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△質屋の土藏を借 りる事にして、丁度寒い二月の頃で然も大藏の中なので其寒さの猛然さは素敵なものだつたとか、毎朝ぼつぼつやつて來る弟子どもを先生は金丸火鉢で待つてゐたものだが、餘り弟子が來ないと先生はいつも書生の西郷と云ふ青年を相手に盛に取つたものだ。其後段々嘉納流柔道が世間から認められる様に成つて

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△警視廳邊りにも出稽古 に行く様になつたが、其頃始めて講道館の眞價を天下から認められる好機會が來た、これは明治二十年であつた。當時千葉に有名な武術者があつたが、之れが其の弟子の精鋭二十名を選んで新進の講道館に大試合を申込んだのである。先生の心配は非常なものであつた、是が天下に對して嘉納流の實力を現す試金石なので、先生も弟子も如何に其

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△當日まで奮勵努力した かは想像以上であつた、愈當日となつた、結果は驚く可し、講道館は僅か二人の引分を取つたのみで、あとは全部大勝を博したと云ふ前代未聞の戰ひであつた。講道館員の喜びは絶頂に達し、天下の驚駁(※愕?)も亦素晴しい者であつた。爾来講道館の名聲は世界に普く微々たりし永昌寺の道場は今日の

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△下富坂の七百疊の大道場 と化し、世界に渡つて二萬以上の館員を有する大勢力となつたのである、本年正月の調べには有段者が實に二千有百名の多數に上つてゐる。されば今回嘉納先生は此の柔道を大成する爲「柔道」と称ふる機關雑誌を發行して、それ等の館員を教育すると同時に廣く柔道の本義を以て日本の青年を教育したいと奮勵されて居る

 

 

当時千葉の有名な武術者、とは、戸塚派揚心流の戸塚彦九郎英美のことと思われます。その先代、戸塚彦介英俊は、明治19年に没しています。

 

 

讀賣新聞 明治19(1886)年4月17日朝刊

○柔術者死去 有名の柔術家戸塚彦介氏ハ兼て病氣の處終に養生協(かなは)ず七十四歳を一期として一昨十五日死去したり

 

 

 

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