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東勝熊余話 独逸篇 |
Staatsbibliothek zu Berlin ベルリン州立図書館 http://staatsbibliothek-berlin.de/ Homepage der Ostasienabteilung der Staatsbibliothek zu Berlin ベルリン州立図書館東アジア部門ホームページ http://ead.staatsbibliothek-berlin.de/index_de.html Lexikon Japans Studierende − Listenansicht 日本人学生事典−名簿一覧 http://crossasia.org/digital/japans-studierende/index/show/page/6 (このページの下から5人目です。) Name Higashi Katsukuma Ort Kagoshima Daten - Text WS 1906/07-SS 1912 Staatswissenschaft, Nationaloekonomie - U Berlin, W 35 Schoeneberger Ufer 10. 1911/12 Direktor des Deutsch-Japanischen Verkehrsausschusses Berlin office. Mitautor von Das Kano Jiu-Jitsu (Jiudo): das offizielle Jiu-Jitsu der japanischen Regierung: mit Ergaenzungen von Hoshino und Tsutsumi, sowie Erlaeuterungen ueber gefaehrliche Schlaege und das Kuatsu, das japanische Verfahren zur Wiederbelebung Bewusstloser (1906). 姓名 東勝熊 出身地 鹿児島 生没年月日 − 本文 1906/07冬学期−1912夏学期 国家学、経済学−ベルリン大学、住所 35 シェーネベルク岸10。 1911/12 独日交通委員会ベルリン事務所長。嘉納柔術(柔道)・日本政府公認柔術・星野と堤の増補、並びに危険な打撃と活、失神からの蘇生のための日本方式についての注解附き (1906)の共著者。 東京朝日新聞 明治42(1909)年8月17日朝刊 世界見物 藪野椋十 (九六)獨逸に入る … 伯林に着くと停車場に東勝熊、中村春雨其外五六人の日本人の方々が出迎へに來て下された、其晩直に日本倶樂部で日本食の御馳走が有る、西洋婦人のお給仕で米の飯を食ふのは一寸面白い味がするものぢや。獨逸には日本の役人留学生等二三百人もゐるので大概の日本食物は備つて酒は勿論、漬物も海苔も味噌醤油も鰹節梅干も一向不自由は無い事ぢや、殊に此の倶樂部に毎晩十人廿人の日本人が見えぬ事は無い、日本に居るも同様ぢや。此晩二三人我ホテルに集つて夜一夜獨逸話しをして下された。いやもう獨逸といふ國はえらい國らしい。 … 東京朝日新聞 明治43(1910)年4月22日朝刊 ●伯林の日本倶樂部 先月新位置アンデル、アポステルキルヘ、八、ベルリンに移轉せる日本倶樂部は建築美にして設備も整ひ、食堂、圖書室、應接間玉突場、湯殿等何れも清潔便利にして舊(きう)倶樂部の比に非ず経營者は東勝熊氏等にして、信書の轉送及び同地に於ける諸般の研究調査等の依頼にも應じ遊覧、視察、宿泊其他斡旋の勞を執るべしと 東京朝日新聞 明治45(1912)年1月15日朝刊 ●一昨夜の文相邸 ▽東勝熊氏歸朝祝宴 長谷場文相は其令甥東勝熊氏が今回伯林より歸朝せるを機とし一昨夜氏と親交ある人々を其官邸に招きて鄭重なる晩餐會を催せり會者は福永主計総監、八代海軍少將、床次内務次官、栃内海軍少將、松岡、松本、水野、幣原、柴田の諸博士其他三十餘名、宴酣(たけなは)にして文相の挨拶あり来賓一同に代りて八代少將の謝辞あり次で東氏は自ら伯林にて経營せる日本商業會議所の通信部紹介部商業部調査部及商品陳列館の事業を説明したり、宴會の前後數番の薩摩琵琶弾奏あり文相が如何にも嬉しげにまめまめしく賓客の間に周旋せると東氏を中心として各種各様の人々が久し振に相會して快談の機會を得たると何やかやにて一同快よく打解け官邸の宴會には珍らしき迄に正しく文字通りの歓を盡し散會したるは十時に近き頃なりき、尚伯林にて東氏の世話に成りたる先輩友人相謀り來る二十三日築地精養軒にて盛大なる歓迎會を催す筈なり東氏は三月中頃迄文相邸に逗留し再び歸獨の上専心其事業に盡力すべしといふ 讀賣新聞 明治45(1912)年2月2日朝刊 喫煙室 ▲此の程精養軒で伯林から歸つた東勝熊氏の歓迎會を開いた△會する者は八代少將、野田卯太郎氏等を始めとしてレツキとした大官紳士等それぞれ身分のある者無虚六十人△八代少將が一同に代つて歓迎の辞をデザートの際に述べたはよいとして△之れに酬いて東氏が「出やうに依ては諸氏が伯林でやつた狂態を素破抜くぞ」と滑稽半分威嚇半分で述べたので中には頗る恐縮して居た紳士もあつた△成程氏は伯林で日本旅客の案内者をして居たのだから玉手箱の秘鍵は氏の掌裡に在る。之を打あけられてはたまらぬ筈と咸心した者もあつた。 The Independent A WEEKLY MAGAZINE August 4, 1904(Volume. 57) Publisher: New York : S.W. Benedict http://archive.org/details/independent57newy 722ページ http://archive.org/stream/independent57newy#page/722/mode/1up/ A Japanese Autobiography BY KATSUKUMA HIGASHI ある日本人の自叙伝 東勝熊著 以下はその一部の要約として、わたしがこれまでご紹介して来た文章です。 22年前に薩摩国串木野の屋敷に士族の長男として生誕。父は天朝方の新秩序に逆らって敗戦(40年前、とあるが、戊辰戦争ではなく西南戦争か)の後、許されて公職(村会議員?)につく。牧師の知遇を得てキリスト教に改宗。妻と子供達も続いたが、父は死去。神道家の叔父が一族の長となった。13歳でグラマー・スクール(高等小学校?)を卒業後、叔父に軍人となるべく士官学校(陸軍幼年学校?)に入れられそうになり、家出。旧知の宣教師を頼って熊本に。ミッション・スクールに3年いて、英語、幾何学、三角法、立体幾何学、英文学を学ぶ。次いで同志社大学(同志社英学校)で3年学んだ。1年は数学で賞金(奨学金?)を得た。修了後、渡米。その間母の死を知る。サン・フランシスコに上陸後、大陸を横断してマサチューセッツ州のモンソン学院へ入校。休日はニューヨークの街や農場で働く。次いでイェール大学に入学。1年半、経済学を学ぶ。同時に柔術を体育の一学科として制定すべく運動して、多くの学生の関心を得た。全米体育協会(NCAAの先行組織?)の会長は検討を約束したが、何もなされず。その後財政の窮乏によって大学を離れたが、すぐ戻りたいと思っている。西洋の学問を学んで最終的には日本でそれを役立てたいが、まずはドイツへ行って学問を続けたい。 … The Emperor was thoroughly reconciled to my father, who became a member of the Council of State, and that was the condition of affair in our family when I was born, the eldest son. … After the death of my father, his brother, my uncle, one of the great men of Japan, came upon the scene as the new head of our family. … (略) 天皇は我が父とすっかり和睦し、父は議会の議員となり、そしてそれが我々一族の地位の状況であった時に、長男として、わたしが生まれた。 (略) 我が父の死後、彼の兄弟、我がおじ、日本の偉人の一人が、我々一族の新しい長として登場した。 “council”なら地方議会ですが、大文字の“ Council”なら枢密院です。「公職(村会議員?)」とあいまいに紹介したのは、当時の薩摩出身の「東」名字の政治家を知らなかったからです。 串木野郷の士族出身で、西南戦争において賊となるも許されてその後議員(県会議員、国会議員)になった、という経歴の人物として、長谷場純孝の名前を見つけていましたが、大正時代まで生きたことと、名字が違う(養子だった話も聞かない)ことから、無関係であると考えていました。勝熊は父親とおじの経歴を混同していたのでしょうか。 勝熊の父の死後に家長となったのなら、おじは弟(叔父)でありまた「東」を名乗ったはずだ、と考えていましたが、「長谷場」のまま「東」家の面倒も見た、ということなのでしょう。勝熊の父の方が弟であると考えることができるなら、純孝が東家から長谷場家に養子に行ったのでなく、勝熊の父が長谷場家から東家に養子に来たと考えられます。「長谷場」は串木野郷では「あつかい」(「口」偏に「愛」と書く。後に郷士年寄)の家柄で、与頭(組頭)の家柄である「東」より格上だったようです。 カゴシマニアがゆく:【西南戦争】長谷場藤蔵と純孝親子 http://kagoshimania-adventure.blog.jp/archives/51587426.html 長谷場純孝(はせば すみたか)とは コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%A0%B4%E7%B4%94%E5%AD%9D-14752 山田潤二「伯林脱出記」(千章館、1915) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953118 第三 伯林脱出 (P162〜163 コマ番号95) 第三 留別の宴 晩餐 親友相寄りて留別の爲に晩餐を共にす、友人総ては今明日を以て伯林を去ればなり、滞留を決心したる湯上りの遊子は心身の爽快を覺えて啖(くら)ふこと盛んなり、皿を替ふること三度に及ぶ。 …日本倶樂部に於いては去る七日既に掲示して曰く「白米拂底に付會員諸君心附きの節は各自購買持参を乞ふ」とありて爾來其献立は僅かにスキヤキの一種に限られぬ。 … (P205〜207 コマ番号116〜117) 第七 遁げ仕度 義理の柵 遊子が滞獨の決心を翻したるは八月十六日の事なり。… … 大使館よりの歸途日本倶樂部を訪ふ。闃呼(げき)として聲なし。事務室を敲(たた)きて残務に忙はしき西村君と笑語す、倶樂部は本日を以て閉鎖し、氏も亦明日正午倶樂部員厨夫等と共に出立と決すと、氏も亦滞伯黨(たいはくたう)の一人なりしが今や「愈(いよいよ)立つか喃(なう)」と洩らす。時に午後二時遊子空腹甚しきも倶樂部は最早食膳を調へず、厨室に入り賄夫に乞ひて残飯とキヤベツ漬とを食卓に運ばしめ、熱湯を注ぎて茶漬を食ふに天下の美味なり、而して實に無代價なりき。 … 第一次世界大戦が始まっていました。日本倶楽部が閉鎖された一週間後の1914年8月23日、日本はドイツに対して宣戦を布告しました。 戦後は1923年に「独逸日本人会」という会員組織ができて、これが「日本人倶楽部」とも「日本倶楽部」とも呼ばれた由。 東京朝日新聞 大正10(1921)年8月17日朝刊 日本國際石油創立 東勝熊氏等は今回墨國の有力者と契約して現在日々五萬バーレルを産油せる墨國第一流の會社と特約し一日最低一萬バーレル即ち一箇年約三百萬石の原油を収得するの特権を得たるを以て之を基礎とし資本金三百萬圓にて日本國際石油株式會社を設立する事となり右創立委員長に海軍主計中將福永吉之助氏を推し而して株式は發起人及び賛成人にて全部引受け二十五日頃創立総會を開きて定款其他を決定する由 讀賣新聞 大正10(1921)年8月17日朝刊 國際石油創立 資本三百萬圓 日本國際石油會社は資本金三百萬圓を以て貴族議院議員福永吉之助氏を創立委員長に伊地知海軍中將を顧問と爲し株式は既に發起人賛成人にて引受濟となり來廿日頃創立総會を開く筈なるが同社の特約せる輸入年額は三百萬石其價格は重油一石當り八圓揮発油を一石當り四十圓にて供給する計畫なり尚第二期計畫として多量の外油を得ることとなり居る由にて其確定と同時に資本金を二千萬圓に増額して石油市場に活躍すべしと 讀賣新聞 大正10(1921)年11月15日朝刊 國際石油發展 墨國會社と握手 日本國際石油會社は豫て同社の第二計畫たる墨國石油産地に於ける永代送油鐵管敷設權の獲得につきシイアベトロレアデイアナメキシカナ會社との間に折衝を重ねてゐたが先方では共同出資で経営し度き意向を洩らし且つ最近墨國會社々長ヒシコツク氏が渡來して目下兩社間で協議を進めつつあるが結局合同成立するらしく愈々契約調印の上は國際石油會社は其資本金を二千五百萬圓に増資するのであると 東京朝日新聞 大正11(1922)年4月30日朝刊 輸入石油會社簇出 石油の需要は世界的に年々増加し米國の如きテキサス・アイブホ其他の海軍省所管に關する油田を民間に拂下げ或る一定の年限採掘許可を與ふる事に決定したが我國にても内地油田の開發の外原油輸入に留意し旭石油がライジングサンと特別契約をなし居る外近來輸入のみを目的とする石油會社の創立計畫されたるものあるが是等は此間の需要を目的とするのでなく年年海軍省に納入する石油を目當として居るのであるから競争入札に依つて落札すると同時に是等輸入新會社も閉鎖の状態に陥るので現に日本國際石油會社の如きは創立當時三百萬圓の資本より一躍二千萬圓の増資を計畫したが不成立に終り尚ユニオンシンクレア石油會社の販賣契約も自然消滅したが其他國際石油及淺野総一郎氏の内外貿易最近計畫した松方氏の鎭南浦に於る日墨石油會社の如き何れも海軍納入が其主眼であるが本年度納入も已に旭三井等に契約成立したる今日に於ては新會社の成立は頗る困難な状態に陥つて居る殊に前記新會社と輸出會社との契約を見るに別に一定の年限及數量を規定せず便宜時價に依つて取引するに過ぎないから原油會社が或政策に基いて取引を中止するも之れに對して抗議を申出づる能はず従つて特別なる需給契約を締結せない限り輸入を目的とする石油會社の基礎は甚だ覺束ない状態にある その人脈を利用して政商たらんとしたものの、うまく行かなかった…のでしょうか?石油の時代が来る、との狙いはよかったとは言えましょうか。しかしつくづく波乱の人生であったと思います。 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 昭和シェル石油 沿革 シェル石油 1900年(明治33年)4月11日 - ロイヤル・ダッチ・シェル(当時は前身のサミュエル商會)の日本法人としてライジングサン石油株式會社設立。 1948年(昭和23年)10月15日 - シェル石油株式会社に商号変更。 昭和石油 1942年(昭和17年)8月1日 - 早山石油株式會社、旭石油株式會社、新津石油株式會社が合併し、昭和石油株式会社設立。川崎製油所・新潟製油所・海南製油所発足。 (後略) 追記2016.12.1 富宿三善「長谷場純孝先生伝」(長谷場純孝先生顕彰会、1961)に、次のようにあります(第六章 長谷場家家譜その他 二 長谷場家の一族、P408)。 先生は三人兄妹で、姉は市来町、高崎直太郎氏の母堂であり、妹は登与と称し、麓の東武七氏に嫁し、東純忠氏の母堂である。 長谷場純孝は、東勝熊の母親の兄だったようです。東家に成人男子がいなくなったために、純孝が後見をしたものと思われます。長谷場家の当主は代々実名に「純」の字が入ります。東家の男子も、後見人の純孝から「純」の字をもらったのではないでしょうか。 東京朝日新聞の大正3(1914)年3月16日朝刊、長谷場純孝の訃報記事には、「長谷場純孝氏の家庭」と題する集合写真が載せられており、純孝の隣に立つ青年に「令甥東純忠氏」と説明が付けられています。顔は勝熊に似ており(ただし背は高い)、勝熊の実弟であろうと思います。 ただし、「長谷場純孝先生伝」にも同じ写真が掲載されている(衆議院議長官邸応接室で明治44年5月写、とあります)のですが、こちらのキャプションでは同じ人物が「保氏(親戚)」とされています。純孝の養嗣子・敦(旧姓・児玉)の実弟に保という人がいるようですが、顔からすれば東家の人間であろう(つまり、「保氏」は間違い)かと思います。 “The Independent”にも“In my own family there were three boys and two girls.”とあり、勝熊に弟がいたことも間違いないと思われます。 丸山三造「世界柔道史」(恒友社、1967)に収録されている「明治時代の講道館入門者名簿」によれば、京都分場に明治32(1899)年、鹿児島出身の「東純興」が入門しています。これはちょうど東勝熊が同志社にいた時期に当たります。「純興」は長谷場純孝が(長谷場家の伝統に従って)与えた実名で、勝熊はこれを嫌い幼名(?)を名乗って世界に飛び出した…とはうがって考え過ぎでしょうか。 長谷場純孝「欧米歴遊日誌 附樺太韓国紀行」(長谷場純孝、1907) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/760976 (P95〜 コマ番号68〜) 獨乙漫遊日程 … 獨都ベルリンに入る 七月二十日曇。汽車終夜進行、午前七時佛獨の国境に入る、税關吏荷物の検査を爲し、同八時コロン停車場に着、朝食を喫し、更に發車、午後六時三分、獨都ベルリン市内のポーツダマ停車場に着するや、篠原、船越の兩書記官、八代海軍大佐、上村書記生及東勝熊諸氏の歓迎に伴はれて、べレビユーホテルに投宿す、此の夜八代大佐の招待を受け、日本倶樂部にて、牛肉スキ焼の日本料理を食す。 … 馬車を郊外に驅る 七月二十二日晴。八代、明石、及東氏等の案内にて逓信省内の陳列場を見る、午後井上大使來訪、同四時より八代大佐と自動車にて、キヤピテン、ミレーを訪ひ、其れより馬車を郊外の湖畔に驅り、歸途動物園を見物し、八代大佐の寓に立寄り、快談覺へず時を移し、十二時ホテルに歸へる。 … 伯林再訪の數日 … 七月三十日晴。柏村、東兩氏の案内にて、ポッダムの舊宮殿及各所の古蹟を訪ひ、歸途小蒸氣にて風景絶佳の湖水を渡り、船中ホン、ゲルハード、アミントン氏の家族に面晤し、午後九時旅舘に歸へる。 … 明治39(1906)年のことです。遠き異国の地にて運命の再会…のはずですが、長谷場先生は他人行儀に「東氏」と書いています。 メニューページ「東勝熊 余話として」へ戻る |