1952 本田存「温故知新」(柔道)

 

 

「柔道」昭和27(1952)年10月号(講道館)

 

故八段本田存氏は生存中、柔道修行者のために色々注意すべきことを記された。左記のものも、その書き残されたものの一部である。

 

温 故 知 新

      指先きの逆や胸絞めにつきての注意

本田 存

 

 現今の柔道修行には懸念ないが、昔はぜひ留意しなければならないことであつた。それは當流では屡々行つているが、我が講道館では嚴禁して居つた指先きの逆や小手挫きのやうな技で彼等は平素練磨して居るのに、吾等は手がけぬばかりでなく、これを我慢して怪我をし易くなる處から嚴禁したものだから他流と試合をするときにはこの點に注意しないと、逆指を取られたり、小手挫きと云う技で極め付けられ易い。私もそれで油断して苦しめられたことがあつた。立ち合いに兩手を開いて突き出したり、高く揚げたりすることは禁物で、相手の襟を取るときは拇指を四指の中側に入れ輕く握るようにと教えられたもので、不利と見れば直ちに抜き取れるからだ。當時皆んなの指先きのたこが指の第一關節の裏に出來たのが、近來では強く握り絞る處から手の甲の第一關節の邊に一面にたこが出來るやうだ。これでは逸ち早く手を抜きとれないから直ぐ極めつけられる恐れがある。從つて稽古振りも違つて手先きに力が籠り易く、技も力技に變つて來た。強力のものは兎も角も非力の者は相手を崩しにくいから妙技等は生れない、手首の逆取りなどに得意の者に出遇つたなら忽ち攻めつけられ不覺を取り易いので注意すべきだ。たとえ禁止されてあつてもそう云ふ技が一方にあるのだからよく研究して不覺を取らないように心掛けるがよい。私が一度他流試合で手指の逆を取られそれを肩に引きつけ逆一本背負に掛けられんとしたことがあつた。それを無理に避けようとされるときには肱を痛める恐れがあるので、相手の力に順應しつつ腕を順に返してのがれた事があつた。注意すべきことだと思う。本館内での仕合にはそんな心配はないが他流とでは油斷もすきもないから、手を出すにしても母指をむき出しにせず屈げて四指の下側に置くようにしろと教えられたものだ。云うまでもなく拇指を露き出しにすると小手返しのやうな技で惱まされるからだ。近來は立ち合い早早兩手を開いて不用意に差出すのや、やつと掛け聲しながら無造作に指先きを開いて高く揚げる者があるが、これなどは不注意千番、平素練習しなかつたから知らなかつたと逃辭は出せない。試合に禁止された技でも一通りは心得て置きそれを無難に避けられるようにして置くがよい。次は胴絞めのことだが、それは大抵堪へ得らるる熟達した者の攻撃はなかなか堪えにくい。この技で散々困つたあげくに腕挫きに變化するのを得意とする者があつたが、胴絞めの方は避ける手もあつても、最後の手で凱歌を奏される。胴絞めには兩肱を立て相手の兩股の付根の處を二三度揉むと何んのたわいもなく緩むから避け易い。一度故横山六段と筑後の強豪警視廳世話係の中村半助氏との仕合に、この手があつた。上になつて居る横山氏は兩襟を握りそれを引き立てながら徐々に前方に摺り出して居る。それを中村氏は下から必死に胴絞めで絞めつけている。拒んでいる横山氏滿面朱を注いで徐々に前進、將に羽目板に頭を押し近づけんとしたときに、見證は「それ迄」と聲をかけたので、物分かれとなつた。見證は横山氏の優勢だから勝と宣せられるのであると期待したが何んの宣言もなかつたので後で横山氏にたずねたら胴絞を續けたら羽目板に頭を突きつけ頸骨を砕いてやらんとの氣合で摺り出たのを、見證は察知して、大事を惹起せざる中に中止を宣したのである。勿論自分の勝ちであるとの確信を持つて居ると答へられた。氣合が旺盛であれば逆に相手を制することも出來るものだと初じめてわかつたことがある。

要するに、氣合いが滿たなければ何等効果を發揮されないものであることを知らなければならない。平素の稽古にも充分氣合に滿ちた姿で立ち向はねばならない。これに缺けると兎角試合に不覺を取つたり、怪我を起し易いので勝を制するなどは思いもよらないことになる。修行者はよく此の點に心しなければならない。修行者諸君よくこの點に留意して善處されんことを切望してやまない。

 

 

本田存(ありや) 安房文化遺産フォーラム

http://bunka-isan.awa.jp/About/item.htm?iid=398

 

 横山作次郎対中村半助の試合を、本田八段が見ているのなら、その試合は本田八段が講道館に入門した明治21(1888)年6月以降に行われたことになりましょうか。三島通庸警視総監がその勝負を預かったのなら、その時期は更に狭められます。三島総監は同年10月23日に死去している上、富田常雄が言うようにその年は療養のため東京を不在にしがちだったからです。

 ただし、本田八段が自分の見たことではなく、先輩からの伝聞を書いた可能性も、なくはないかもしれません。

 この試合ではブラジリアン柔術で言う所の「ガード・ポジション」の攻防があったようです。「少年倶楽部」1930年10月号(講談社)に、鳴弦楼主人が書いた「試合物語 肉弾相打つ巨人 ―横山作次郎対中村半助―」の中でも、寝技で膠着した状態で、上になった横山がじりじりと羽目板に近付いて行き、中村の頭をぶつけようとした、という描写が見られます。試合の日付は明治21年3月21日とされています。

 

 

「柔道」昭和14(1939)年4月号(講道館)

 

講道館今昔を語る

      講道館庶務課長 本田 存

 

   一

 私は明治二十一年六月に入門して、毎日富士見町の道場で修行した。當時の道場は師範邸の一隅にあつて、廣さは四十疊で、毎日の稽古人は四、五十人程度であった。明治も三十年代となり、四十年代と移り代るに從つて、修行者の數も増へ、道場も狭くなつて、段々と疊數増加も必要となつたので本郷の眞砂郷町に本館が移され、五十四疊の廣さとなり、別に下二番町に麹町分場が出來て、兩方で稽古が出來ることになつた。それから數年後兩道場は廃止され、下富坂町に九十六疊の道場が建てられ、更に十三年後にその道場を大塚坂下町に移して、その跡に二百七疊と云ふ一躍二倍以上の廣さを持つ道場となり、更に五百疊の廣さを有する今日の大道場となつて、如何に講道館柔道の修行者が増加したかを示して居る。

   二

 私の入門當時は、師範も大概毎日道場に出られて稽古をつけられ、又師範邸に寄寓する内弟子の高段者が、多數出席して稽古をつけられたから、指導上には十分手が行き届いてゐるし、その上師範の柔道講話がしばしばあつて、技の筋道を會得し易いやうに、人形を使用されて示されたから、原理と實地とに於て得る處が多かつた。然し教授法は、今日のやうに整つた方法でなく、専ら鍛錬主義で、毎日怠らず稽古をして居れば、自然に體得すると云ふので個人指導が重であつた。

 師範を初め先進者が稽古をつけらるときは、少しも猶豫を與へられないやうの仕方で、道場狭しとばかり引き廻され、投げたり、抑へたり、立ち上り遅れると、兩肩を突いて後方に倒したり、息のつく暇さへ與へられないから、忽ち息を上げて仕舞ふ。要するに身體のどの部分にも凝りのないやうに揉みほぐして、他日自由の働きが出來るやうにするのが指導法であつたと思ふ。

 師範の講義中にも『紙を揉んで柔くする如く、身體も揉みほぐされなければ自然の變化が出來ない、技を防ぐよりも如何様に投げられても、體を痛めないで直に立ち直つて組合ふことにするがよい、かくすれば自然と體の中心の位置を變換する呼吸を會得して、投げられなくなるもので、最初から投げられることを厭つては、變化に處する妙味を覺れないばかりでなく、美技を發揮すのる様にもなれない、俗に平手なりに固ると云ふ事になるのだ』。と説かれたが、實際その通りであると合點の出來たのは、初段に列せられた後年の頃であつた。

 稽古がその様であつたから、最初の中は體中が痛んで起居にも大分難儀で、便所で用をたすにも、立座難澁、と云ふ始末。氣の弱い連中は大概一ヶ月もたたない内に中止して仕舞ふ程だが、その難關を通り越せば、體も樂になり、稽古に面白味が出て一日も休むことが出來ないやうになる。それだから其頃の修行者は體の凝りがとれて、臨機應變の處置が出來、無段者でも二、三の得意技を持つて、この技で行かなきや、彼の技で制すと云ふ風に、それからそれへと技を出したものだ。

   三

 初段に列せられて黒帶をしめるやうになると、後進者が我れも我れもと稽古を願ひに來るから、忽ち強みがつき、技倆も向上して有段者らしくなつたものだ。當時の社會の状態は決して穏かではなかつた。一度足を門外に出すと、いつ何ん時身に振り掛かる攻撃に出會はぬとは限らない。それが一人と一人との戰ひならなんでもないが、相手が二人、三人、四人と多勢の場合に善處するには、どうしても飛鳥の如き體さばきが出來なくては功を奏しない。私も素々かう云ふ周圍の状況から體を練り、技を磨く必要があつて入門したものだから、道場での稽古風も自然これに適するやうにしたのは當然のことであつて、決して一人に對する處置が完全に出來ても、それで安んじては居らなかつた。

   四

 當時先輩の高段者中體力強大の人が、強ち猛者とは云はれない。反つて中肉、中背の人に勇名を轟かした人が多かつた、有段者の筆頭であつた故西郷四郎は五尺に足りない小兵で、嘉納門下の麒麟児と称された程の妙技の持ち主であつた。

 故指南役横山、山下兩先輩でも、身長は五尺四寸前後で健在の宗像指南役や、故人の富田七段、本田増次郎三段などは五尺一寸臺の身長であつたが、然も警視廳に於ける斯界の猛者たる世話係連中と試合して堂々、勝利を占めたものだ。

 明治も三十年代頃迄はこのやうな稽古振りであつたが、四十年代となるとそろそろ變つて來て、體捌きによつて相手の體を崩すと云ふ原則に悖る行動を爲すものが多くなつて來た。これは周圍の状況が平穏で、實地に腕を試みる機會もなく、現實にその必要を感じない處から、ただ一人と一人との道場内での強弱を争ふことに有効である動作であれば、それでよいと云ふ氣分もあるのと、師範も公務御多端で、直接指導に當られる機會が稀となつたのと、道場で指導の任に當つてる人も以前程手揃ひでなかつため爲め、自然手が行き届かなかつたと云ふことも一原因であつたと思ふ。(未完)

 

 

「柔道」誌の次号、昭和14(1939)年5月号に、続き「講道館今昔を語る(二)」が掲載されていますが、ご紹介は省きます。

 

 

 

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